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1912年初頭、{{仮リンク|ゲオルギー・ドルガニョフ|en|Hermogenes (Dolganyov)}}はラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したと主張した。ラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したことは事実と見られているが、言動にフリスト派の影響を受けたと思われる点は確認されていない<ref>[[#Moynahan|Moynahan]], pp. 37, 39.</ref><ref>[[#Fuhrman|Fuhrmann]], pp. XXVII, 20, 53–54, 80.</ref>。また、この時期には「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れた<ref>[[#Out of My Past|Out of My Past]], p. 299</ref>。噂に基き[[ミハイル・ロジャンコ]]はラスプーチンに帝都から出て行くように要求した<ref>[[#King|King]], p. 188</ref><ref>[[#Moynahan|Moynahan]], p. 168</ref><ref>[[#Spiridovich|Spiridovich]], p. 286</ref><ref>[[#Fuhrman|Fuhrmann]], p. 92.</ref>他、首相[[ウラジーミル・ココツェフ]]はラスプーチンを「亡命」させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている<ref>[[#Rasputin|Rasputin]], p. 70.</ref>。トボリスク司教はラスプーチンを「皇室と[[ロシア正教会]]の仲介者」と好意的に見ていたが、大半の司教たちは反感を抱いており、[[聖務会院]]はラスプーチンを「不道徳者」「異端者」「[[エロトマニア]]」などと非難した<ref>[http://www.alexanderpalace.org/palace/alexis-tsarevich-spala.html Eyewitness Accounts – Alexis Almost Dies at Spala – 1912]. Alexanderpalace. Retrieved on 15 July 2014.</ref><ref>[[#Moynahan|Moynahan]], p. 154.</ref>。この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた<ref>[[#Wilson|Wilson]], pp. 139, 147.</ref>。
ラスプーチンの言動は[[ドゥーマ]]でも問題視され<ref>Iliodor (1918). [http://ia700303.us.archive.org/12/items/madmonkofrussiai00trufuoft/madmonkofrussiai00trufuoft.pdf ''The Mad Monk of Russia'']. The Century Co., New York. p. 193.</ref>、1913年3月に[[アレクサンドル・グチコフ]]率いる
=== 暗殺未遂 ===
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