「権利の請願」の版間の差分

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S kitahashi (会話 | 投稿記録)
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== 権利の請願 ==
そんな中で1628年3月議会が再開されたが、その中には強制公債を拒否して投獄された27人の議員を含んでいた。議員達は[[ストラフォード伯爵トマス・ウェントワース|トマス・ウエントワース]]・[[ジョン・ピム]]・[[ジョン・ハムデン]]らを指導者として国王の責任を追及すると同時に臣民の自由と権利の再確認を求める法案を提出しようとした。だが、[[思想家]]・[[法学者]]として著名であった[[庶民院]](下院)議長[[エドワード・クック]]は、法案として提出すると、却って国王の態度が硬化すると考えてより穏便な「請願」の形式を取る事となった。
 
全11条からなるこの請願は、まず大憲章以来のイングランドの[[法制史]]を語って、昨今の法律には伝統的なイングランド法に対する違反があると指摘し、これを解消するための請願が出されている。
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これは旧来からイングランド国民に保障されていた権利の再確認のための請願で、むしろ保守的とさえ言えるが、国王大権が議会法に制約されること、イングランド国民は不当な権利侵害から守られていることを明確にした点において、後世に大きな影響を与えた。
 
チャールズ1世はこれを拒絶しようとしたが、[[貴族院_(イギリス)|貴族院]]もこの請願に同調する動きを見せた事、腹心のバッキンガム公にこれ以上非難の矛先が向かう事を憂いた事、財政悪化の中でこれ以上の議会の対立を避けるために一旦は承認して、法律としての効力を持つに至った。ところが、請願の承認直後にバッキンガム公が[[暗殺]]されるとチャールズ1世の態度は再び硬化して、翌年になると国王大権を盾にこれを事実上廃止して、抗議をする議会を解散した。更にバッキンガム公の死を機に国王側との和解を図るべきだと唱えて議会内部で孤立したトマス・ウエントワースを[[ストラッフォド伯]]に叙任してこれを取り込み[[親政]]に踏み切った。
 
親政によってイングランド国民に更なる重税と社会不安が広がり、これに対する議会・国民の反感が13年後に[[清教徒革命]]と言う形で爆発することになった。