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*社長時代は、フジテレビ・ニッポン放送では正社員にあたるアナウンサーへの女性の採用を禁じ、派遣社員クラスにあたる報道局所属のレポーターとしての採用<ref>いわゆる抜け穴採用。[[1975年]]入社の[[田丸美寿々]]や[[1977年]]入社の[[城ヶ崎祐子]]、[[益田由美]]は[[1981年]]までアナウンサーではなかった。1981年入社の[[本間淳子]]からは正社員として採用している</ref> や、25歳での結婚退社を強制した。ただし、議長に復帰した1988年は[[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律|男女雇用機会均等法]]の制定後であったことから、長男の春雄が行った女性差別制度廃止の措置を撤回させることはできなかった。
*「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「敢然と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼商業主義!」(産経新聞創刊に際して広告主向け説明会で発言)
*[[1973年]]、サンケイ紙上に論評欄「正論」登場{{Refnest|group="注"|のちに紙面の欄はそのまま、[[正論 (雑誌)|正論]]として独立する)<ref>{{Cite web
|title=正論って何?
|url=http://seiron-sankei.com/about
|accessdate=2016/12/04
|publisher=Web「正論」
}}</ref>}}。[[右派]]・[[タカ派]]知識人を総動員して[[反共主義|反共]]・[[国家主義]]を提唱。論壇誌「正論」は、小林秀雄、田中美知太郎らの右派文化人が、「左傾化する世論」を憂いて「中道の雑誌が必要」だと鹿内に直談判し、創刊されることとなった。
*[[1978年]]5月、編集主幹として、編集の全権を掌握<ref group="注">通常・新聞社においては経営者と編集者は兼務しないことになっている</ref>
*[[1989年]]10月、10億ともいわれる巨費を投じて、アメリカ大統領を退いたばかりの[[ロナルド・レーガン]]を招待し、産経新聞で20ページからなる特集記事を掲載。
*鹿内のフジテレビ社長時代に入社したアナウンサー・[[逸見政孝]]は、大学の同期で友人でもあった[[松倉悦郎]]と共にフジテレビの入社試験に臨んだ際、鹿内から「早稲田の文学部から2人受けているが、君、1人しか受からなかったらどうするかね?」と質問されたという。逸見は困惑しつつ「それは困ります」と答えた<ref>この時、逸見は鹿内らの反応を見て「松倉にも同じ質問をして同じように答えたのだな」と思ったという。結果的に逸見・松倉共にフジテレビに合格し、揃って入社した</ref>。奇しくも逸見は鹿内が死去して3年後の[[1993年]]、48歳の若さで死去した。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
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