「楊カン」の版間の差分

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m Tiyoringo (会話) による ID:65844856 の版を取り消し「遺腹」は誤字ではありません(「まだ出産していなかった」という意味です)
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楊暕の周りで不法な行為が生じ、御史の韋徳裕がこれを弾劾したため、煬帝は兵1000余りに命じて楊暕の屋敷を大いに捜索させた。その結果、楊暕が亡妃韋氏の姉である元氏の妻と密通して娘を生ませていたこと、また楊暕は兄楊昭の遺児3人の存在が自分の立太子の障害になるのを恐れ、彼らを呪詛していたことなどが明らかになった。一連の報告を聞いた煬帝は激怒し、喬令則ら側近および元氏の妻を処刑したほか、楊暕の配下をみな辺境に流した。これにより煬帝の楊暕への寵愛は衰え、[[京兆尹]]となったものの重要な政務から遠ざけられた。さらに煬帝は楊暕の動向を監視させ、彼が不穏な行動を起こすことを警戒し、老弱な者しか配下に加えなかった。楊暕は常に恐れを抱き、心中不安であった。
 
[[618年]]、江都宮で[[宇文化及]]が反乱を起こした時、反乱の知らせをはじめ聞いた煬帝は楊暕が反乱したに違いないと蕭皇后に語った。宇文化及はまた楊暕も捕らえて殺すよう命じていたが、楊暕は反乱兵を見て煬帝が自分を捕らえるよう命じたのだと思った。処刑される時になっても宇文化及の命令によるものだと知らなかったという。享年34。2人の子供もこの時殺されたが、腹の子である[[楊政道]]は生き残り、彼は祖母の蕭皇后とともに[[突厥]]に逃れ、後に[[唐]]に帰順した。
 
== 伝記資料 ==