「哲学館事件」の版間の差分

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== 概要 ==
 
[[井上円了]]が[[1887年]](明治20年)に設立した[[哲学館]]([[東洋大学]]の前身)は、[[1899年]](明治32年)[[文部省]]から中等教員無試験検定資格を認可され<ref>同じ年に[[東京専門学校]]と[[國學院]]も認可されている(『東洋大学百年史』 通史編Ⅰ、306ページ)。</ref>、以後3年の課程を修了した最初の学生の卒業試験を[[1902年]](明治35年)10月に行った。
 
その折規定によって文部省[[視学官]][[隈本有尚]]・[[隈本繁吉]]らが臨監したが、ムーアヘッド([[:en:John Henry Muirhead|John H. Muirhead]])<ref>Muirhead のカタカナ表記については「ムーアヘツト」(『読売新聞』)のほか、「ムイアヘツド」(『時事新報』)、「ムユアヘツド」(『東洋大学創立五十年史』)、「ミユアヘツド」(『東洋哲学』)、「ミユイアヘツド」(『日本』)などがある。</ref>著、[[桑木厳翼]]補訳『倫理学』によって講義した[[中島徳蔵]]講師の試験問題の1つ、「動機善にして悪なる行為ありや」への答案の中に、動機が善であれば[[弑虐]]も認められるかのごとき文があり、[[国体]]上軽視しえないとして、教授方法などを問題にした。文部省は井上円了に詳細な報告を要請、井上は外遊中だったが2、3の交渉の後、12月13日付で無試験検定資格の認可を取り消した<ref>『官報』 第五八三七号(明治35年12月16日)</ref>。中島も哲学館と[[東京高等工業学校]]の講師を辞職せざるをえなかった。