「ピエール・シャルル・ランファン」の版間の差分

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[[ファイル:L'Enfant_plan.jpg|300px|thumb|アンドリュー・エリコットにより改訂されたランファンのワシントンD.C.計画案]]
 
全体として都市のデザインを形にしようとする起伏の激しい気質と強い主張のため、ランファンの連邦都市設計案は彼が存命中に一部分しか実行されなかった。地区の監督達は、限られた資金を連邦の建造物の建設に利用できるように割り当てたいと願っていた。彼らはこの時[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]の援助を受けている。しかし、ランファンが監督達と度々衝突を引き起こしていたため、ジョージ・ワシントンはランファンが設計図の出版業者を見つけるより先に、彼をこの事業計画から解雇した。ジョージ・ワシントンはランファンが起した設計原案の中の一つを写したものを保持していた。この写しは現在[[アメリカ議会図書館]]が所有している。この写しの左手側上方の隅にある楕円形の中に書かれている最後の一文に、設計者である「ピーター・シャルル・ランファン」と書かれているのがわかる。
 
ランファンの解雇に引き続いて、監督者はこの首都建設計画を、後にコロンビア特別区となる地域の境界線調査を最初に指揮していた測量技師、アンドリュー・エリコットとジョセフ・エリコット兄弟の手に委ねることにした。アンドリュー・エリコットはランファンの建設案を改訂すると、ランファンとは異なり自身の改訂版設計図を刷り、出版して配布することに成功した。後にこのエリコットによる改訂版が、首都開発計画の基盤となった。