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'''吉田 健二'''('''よしだ けんじ'''、男性、[[1935年]][[1月1日]] - )は、[[京都府]]出身の[[日本]]の[[アニメ]][[プロデューサー]]、漫画原作者、[[イラストレーター]]。アニメ制作会社の[[タツノコプロダクション]]の第2代社長、初代会長。ペンネームは'''丸山健二'''(まるやま けんじ、[[芥川龍之介賞|芥川賞]][[作家]]の[[丸山健二]]と同姓同名になったのは偶然)
 
== 概要 ==
ペンネームは'''丸山健二'''(まるやま けんじ、[[芥川龍之介賞|芥川賞]][[作家]]の[[丸山健二]]と同姓同名になったのは偶然)。タツノコプロ創業経営者一族の「吉田三兄弟」の次男で、兄は漫画家・アニメ原作者・タツノコプロ初代社長の[[吉田竜夫]]、弟は漫画家・アニメプロデューサー・タツノコプロ第3代社長の[[九里一平]]。タツノコプロ作品などのデザイナー・イラストレーターの[[吉田すずか]]と、アニメ制作会社[[Production I.G]]役員でアニメのカラーデザイナー、アニメ制作者だった石川みちるは姪にあたる
 
挿絵画家・漫画家として活躍していた兄・竜夫の後を追い、弟の吉田豊治(九里一平)とともに上京。竜夫のマネージャーを務めながら、丸山健二のペンネームを用いて[[貸本漫画]]の表紙絵を描いたり、タツノコプロの漫画作品の原作を手がけた。[[1962年]]に三兄弟でタツノコプロを設立。タツノコプロがアニメ制作に乗り出した後は、自らプロデューサー・企画などの重責を担う。「[[ハクション大魔王]]」「[[アニメンタリー 決断]]」「[[新造人間キャシャーン]]」など、多くのタツノコプロ制作アニメでプロデューサーを務めた。また、脚本も執筆し、丸山健二のペンネームはその際にも用いた。
 
[[1977年]]9月、竜夫の死去に伴い没後、後を継いで就任したタツノコプロ社長に就。[[1987年]]に退任するまでの10年間、ほとんどのタツノコアニメで制作(製作)者として指揮を執った。独自のプロダクションを設立しタツノコを離れていた時代には、テレビアニメ「[[横山光輝]]の[[三国志]]」([[1991年]]、[[テレビ東京]]系)の制作に携わった。その後タツノコに復帰後の会長在任中には「[[マッハGoGoGo]]」のリメイク版([[1997年]])の[[エグゼクティブプロデューサー]]などを務めた。
 
== 経歴 ==
1987年の社長退任後、タツノコプロは弟の九里一平が社長に就任し後を継ぐ。健二自身はタツノコを退社し、独自のプロダクション「[[遊エンターテインメント]]」を設立。テレビアニメ「[[横山光輝]]の[[三国志]]」([[1991年]]、[[テレビ東京]]系)の制作に携わる。
*[[1935年]]:京都府京都市生まれ
 
*[[1958年]]:弟の九里一平とともに上京。
[[1995年]]にタツノコプロに復帰し、会長に就任する。就任後は「[[マッハGoGoGo]]」のリメイク版([[1997年]])の[[エグゼクティブプロデューサー]]などを務めた。
*[[1962年]]:竜夫、九里一平の三兄弟でタツノコプロを設立。取締役専務に就任。
 
*[[1977年]]:竜夫の死去に伴い、タツノコプロの社長に就任。
[[2005年]]7月、タツノコプロが大手玩具メーカーの[[タカラ (玩具)|タカラ]](現・[[タカラトミー]])の子会社になったのを機に会長を退任した。この時、九里一平社長も同時に退任し、吉田家一族がタツノコの経営から離れた。
*[[1987年]]:タツノコプロ社長を退任、タツノコも退社。「[[遊エンターテインメント]]」を設立。
*[[1995年]]:タツノコプロに復帰し、会長に就任。
*[[2005年]]7:7月、タツノコプロが大手玩具メーカーの[[タカラ (玩具)|タカラ]](現・[[タカラトミー]])の子会社になったのを機伴い、会長を退任した。この時、九里一平社長も同時に退任し、吉田家一族がタツノコの経営から離れた。
 
== 参考資料 ==