「ルイ6世 (フランス王)」の版間の差分

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'''ルイ6世'''(Louis VI, [[1081年]][[12月1日]] - [[1137年]][[8月1日]])は、[[フランス王国|フランス]]・[[カペー朝]]の第5代[[フランス君主一覧|国王]](在位:[[1108年]] - 1137年)。第4代国王[[フィリップ1世 (フランス王)|フィリップ1世]]と最初の王妃[[ベルト・ド・オランド]]の子。'''肥満王'''(le Gros)または'''戦争王'''(le Batailleur)と呼ばれた。
 
強力な[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]、[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]に挟まれながらフランス王権の防衛に努めた。
 
== 生涯 ==
父フィリップ1世は[[1092年]]にルイの母ベルトと離婚し、有夫の身であった[[ベルトラード・ド・モンフォール]]と再婚した、これを巡って[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]と対立し破門されを受け権威を意に落ち。そのため、ルイは王になる前から国の実権を握っていた。王太子時代の1104年、[[{{仮リンク|リュシエンヌ・ド・ロシュフォール]]|fr|Lucienne de Rochefort}}と結婚したが子に恵まれず、1107年に離婚した。1108年、父の死により王位を継に即で即位する。ルイ6世はフランス諸侯の反乱に苦しめられたが、幼少時からの親友である[[シュジェール]](聖職者で、サン=ドニ大修道院院長)を政治顧問として重用し、宗教政策による諸侯の統率、父の代から対立するイングランドとの交渉などを行なって、国内の安定化に努めた。
 
しかし諸侯の統率は今ひとつまとまっていなかったため、時の[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]の侵攻を受ける。フランスは危機に陥ったが、シュジェールは[[パリのディオニュシウス|聖ドニ]]の軍旗である「オリフラム」を掲げることで、信仰心ということからフランスの諸侯を参集させてまとめ上げ、これを撃退することに成功した。また、シュジェール主導のもと、[[修道院]]改革なども行なわれている。
 
1137年、2番目の王妃[[アデル・ド・サヴォワ]]との間の次男で、早世した長男[[フィリップ・ド・フランス (1116-1131)|フィリップ]]に代わって1131年から共同王位についていた[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]](若年王)と、南フランスに広大な領土を占める[[アキテーヌ地域圏|アキテーヌ]]公領の相続人[[アリエノール・ダキテーヌ|エレアノール]](アリエノール)との婚姻を決めた後、死去した。
 
== 子女 ==
王妃アデル・ド・サヴォワとの間に以下の子女がいる<ref>Jiří Louda、Michael Maclagan、''Lines of Succession''、Little、Brown & Company、1981. p.125</ref>。
* [[フィリップ・ド・フランス (1116-1131)|フィリップ]](1116年 - 1131年) - フランス共同王
* [[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]](1120年 - 1180年) - フランス王
* アンリ(1121年 - 1175年) - ランス大司教
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{{フランス君主}}
 
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[[Category:フランス国王]]