「ニキ・ラウダ」の版間の差分

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;[[1976年]]
:春にマルレーネと結婚。第4戦スペイングランプリ前に自宅のトラクターで作業中に転落して肋骨を折りながら同グランプリで2位、第9戦終了時点で5勝をあげ、ポイントリーダーであった。
:しかし、[[ニュルブルクリンク]]で開催された第10戦[[1976年ドイツグランプリ|ドイツグランプリ]]で悲劇に襲われる。タイヤ交換で後退してから順位を挽回中に「ベルクヴェルク」の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、右側のキャッチフェンスを突き破り、露出した岩に衝突、衝撃で[[ヘルメット]]が脱げてしまった。発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これに[[ブレット・ランガー]]の[[サーティース・TS19]]が衝突し、アメリカ人ドライバーの[[ガイ・エドワーズ]]、後続で停止した[[ハラルド・アートル]]、[[アルトゥーロ・メルツァリオ]]、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行った。事故原因については、縁石を乗せた弾みのスピン説やリア[[サスペンション]]の故障説、ラウダ自身はタイヤトラブルだと語っているが、現在でその後コントロールを失った正確な原因は謎のまま確定きず謎となっている。
:ヘルメットが脱げた影響で頭部に大火傷を負い、[[FRP]]製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けた。全身のおよそ70%の血液を入れ替え、数日間生死の境をさ迷ったが、[[牧師]]が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復。事故発生から6週間後の第13戦[[イタリアグランプリ]]で奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かった。一方、[[マクラーレン]]の[[ジェームス・ハント]]が第14戦[[カナダグランプリ]]、第15戦[[アメリカグランプリ#アメリカ東GP|アメリカ東グランプリ]]と連勝し、ラウダはそれぞれ8位、3位だった為、ためポイント差を詰められた。
:タイトル争いは最終戦の[[F1世界選手権イン・ジャパン]]に持ち込まれた。この時点でポイントリーダーはラウダで、わずか3点リードポイント差の2位にハント。[[富士スピードウェイ]]での決勝は、コースに川ができるほどの豪雨に見舞われた。レース中止噂される中で強行された決勝を、ラウダは「リスクが大きすぎる」として、わずか2周をスロー走行したのみで自らリタイアした。一方のハントは決勝で3位に入賞し4ポイントを獲得、わずか1ポイント差でラウダを逆転して、1976年の世界F1ワールドチャンピオンなった。
:独断でリタイア自ら王座を手放したラウダをエンツォは公には庇ったが、その後の関係はギクシャクしていく。また、第12戦オーストリアグランプリをボイコットの最中にラウダがレースに復帰する見込みがないと判断したエンツォはダニエル・オーデットに頼み込み、イタリアグランプリ前に代役として[[カルロス・ロイテマン]]を引き入れたことが、結果的にチームメイトであるレガツォーニの解雇につながり、これをきっかけにラウダとフェラーリチーム首脳の間に亀裂が生じ始めた。
;[[1977年]]
:シーズン前のテスト・プログラムからラウダは除外されていたが、第3戦南アフリカグランプリでシーズン初勝利を上げ、チームの体制を再び自分に取り戻す。また第11戦ドイツグランプリ、第13戦オランダグランプリをそれぞれ勝利し、シーズン3勝、2位6回と安定した走りで速さを見せ第15戦[[アメリカグランプリ|アメリカ東グランプリ]]にて2度目の[[F1世界チャンピオンの一覧|ワールドチャンピオン]]を確定した。
:しかし、それまで前年からの経緯からによりフェラーリかられることを決意していたラウダは、[[ゴードン・マレー]]のデザインした、サーフェイス・クーリング(表面冷却)と呼ばれる[[ブラバム・BT46]]に惹かれ、ブラバムの代表者である[[バーニー・エクレストン]]とサインを交わす。そて一緒翌年からの移籍が決定。すると、ラウダと共ブラバムへ移籍することを希望したメカニックがフェラーリから即時解雇され、ラウダはに激怒アメリカ東グランプリ後に2戦を残してフェラーリを去った。
 
=== ブラバム時代 ===