「十月革命」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
39行目:
== 二月革命後のロシア政治 ==
=== 7月蜂起の失敗 ===
二月革命で成立した臨時政府の実権は、[[社会革命党]]の[[ドゥーマ]]議員でペトログラード・ソビエトの副議長にもなった[[アレクサンドル・ケレンスキー]]が握っていた。戦争に疲れ
この攻勢失敗をきっかけに、兵士らの戦争への不満と労働者らの[[飢餓]]や苦境への不満が爆発した。[[7月3日]]から[[7月7日]](ユリウス暦)にかけ、ペトログラードではボリシェヴィキに率いられた労働者や兵士らが街頭へ出て臨時政府に対する[[七月蜂起]]が発生した。ペトログラード沖合の海軍基地の島[[クロンシュタット]]からは[[水兵]]20,000人ほどが武装してペトログラードへと行進し、ソビエトへの権力集中を求めた。ペトログラードと[[モスクワ]]の労働者らも蜂起し、事態は大きくなった。ペトログラードでは
この蜂起の後、臨時政府はボリシェヴィキが反乱を煽ったと非難し、[[ウラジーミル・レーニン]]や[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]を含むボリシェヴィキの指導者は逮捕を避けるために潜伏を強いられ、一時的にボリシェヴィキの勢力は後退した。7月から8月にかけてボリシェヴィキは準合法的な活動に終始したが、ロシア政界のなかで最[[左翼]]にあるという政治的位置はますます強固なものとなった。[[ロシア社会民主労働党|社会民主労働党]]のうち過激な反戦派が1917年初頭に結成した[[メジライオンツィ]]
=== コルニーロフ事件 ===
8月から9月にかけて
コルニーロフが実際に独裁の陰謀をめぐらしていたかについては現在も定かでない部分が多い。コルニーロフはケレンスキーがボリシェヴィキの脅迫や強要の下で動いていると考え、全てのロシア国民に対して「死につつあるロシアの大地を守れ」と呼びかけて決起を行った。コルニーロフ将軍のクーデターに直面したケレンスキーは、臨時政府の軍人たちを信頼することができず、ボリシェヴィキの
=== 軍事革命委員会 ===
[[1917年]][[10月10日]](ユリウス暦)、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択した<ref>[http://www.marxists.org/archive/lenin/works/1917/oct/10a.htm Central Committee Meeting—10 Oct 1917<!-- Bot generated title -->]</ref>。ペトログラード・ソビエトは10月12日(ユリウス暦)に[[軍事革命委員会]]を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的として[[メンシェヴィキ]]が提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。彼は権力掌握を承認させるために、[[10月25日]](ユリウス暦)に開会する予定の第二回全国ソビエト大会の時期に合わせて蜂起することを主張した。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた。
|