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== 二月革命後のロシア政治 ==
=== 7月蜂起の失敗 ===
二月革命で成立した臨時政府の実権は、[[社会革命党]]の[[ドゥーマ]]議員でペトログラード・ソビエトの副議長にもなった[[アレクサンドル・ケレンスキー]]が握っていた。戦争に疲れ[[和平]]を求める兵士らに対し、陸軍大臣を兼務したケレンスキーは第一次世界大戦の継続を主張した。6月16日(ユリウス暦)、彼は[[ドイツ帝国]]および[[オーストリア・ハンガリー帝国]]に対して[[ガリツィア]]で攻撃を開始するが([[ケレンスキー攻勢]])、緒戦の勝利にもかかわらず兵士の士気低下で[[戦線]]は崩壊し、7月2日に[[作戦]]は失敗に終わった。7月6日には逆に独軍と墺軍の反攻が始まってロシア軍は後退に追い込まれ、8月にはドイツ軍の[[リガ攻勢]]により[[リガ]]を奪われた。
 
この攻勢失敗をきっかけに、兵士らの戦争への不満と労働者らの[[飢餓]]や苦境への不満が爆発した。[[7月3日]]から[[7月7日]](ユリウス暦)にかけ、ペトログラードではボリシェヴィキに率いられた労働者や兵士らが街頭へ出て臨時政府に対する[[七月蜂起]]が発生した。ペトログラード沖合の海軍基地の島[[クロンシュタット]]からは[[水兵]]20,000人ほどが武装してペトログラードへと行進し、ソビエトへの権力集中を求めた。ペトログラードと[[モスクワ]]の労働者らも蜂起し、事態は大きくなった。ペトログラードでは[[市街戦]]が起こったが、臨時政府は軍を指揮して蜂起を[[暴動鎮圧|鎮圧]]した。
 
この蜂起の後、臨時政府はボリシェヴィキが反乱を煽ったと非難し、[[ウラジーミル・レーニン]]や[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]を含むボリシェヴィキの指導者は逮捕を避けるために潜伏を強いられ、一時的にボリシェヴィキの勢力は後退した。7月から8月にかけてボリシェヴィキは準合法的な活動に終始したが、ロシア政界のなかで最[[左翼]]にあるという政治的位置はますます強固なものとなった。[[ロシア社会民主労働党|社会民主労働党]]のうち過激な反戦派が1917年初頭に結成した[[メジライオンツィ]] (地区連合派、{{lang|ru|межрайонцы}}、{{lang|ru-Latn|Mezhraiontsy}}、[[レフ・トロツキー]]、[[アドリフ・ヨッフェ]]、コンスタンチン・ユレーネフらが所属した) はボリシェヴィキと距離を置きつつ共同歩調をとっていたが、8月初めのボリシェヴィキ党大会でボリシェヴィキに統合された。メジライオンツィの指導者たち、特にトロツキーは労働者や兵士らに対して鼓舞を行っており、ヨッフェも後に「蜂起のための実際的な組織が行う活動のすべては、ペトログラード・ソビエト議長トロツキーにより指揮されるようになった」と書いている<ref name="Trotsky">'''{{lang|en|Trotsky: Towards October 1879-1917''' by Tony Cliff}}</ref>。これを兵士らの圧倒的な支持を受けるトロツキーと、それを脅威に感じる[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]との間の権力闘争([[党派闘争]])の始まりであると解釈する者もいる<ref>'''{{lang|en|A Concise History of the Russian Revolution''' by Richard Pipes}}</ref>。ヨッフェとユレーネフは後に革命路線を支持して武装蜂起の準備と実行に関わり、ボリシェヴィキのペトログラード制圧に死活的な役割を果たした。
 
=== コルニーロフ事件 ===
8月から9月にかけて[[コルニーロフ事件]]が起こったが、これもボリシェヴィキの勢力復活に大きな役割を果たし、十月革命の触媒となった。臨時政府軍の総司令官[[ラーヴル・コルニーロフ]]将軍は、混乱する大ロシアを立て直すためにはより信頼に足る軍事指導者が必要と考えており、臨時政府とソビエトの両方に属するケレンスキーと対立しつつあった。ケレンスキーはコルニーロフを総司令官に任命したが、そのすぐ後にコルニーロフを、自ら軍事独裁を行おうとしているとして批判した。
 
コルニーロフが実際に独裁の陰謀をめぐらしていたかについては現在も定かでない部分が多い。コルニーロフはケレンスキーがボリシェヴィキの脅迫や強要の下で動いていると考え、全てのロシア国民に対して「死につつあるロシアの大地を守れ」と呼びかけて決起を行った。コルニーロフ将軍のクーデターに直面したケレンスキーは、臨時政府の軍人たちを信頼することができず、ボリシェヴィキの[[赤衛隊]]などの武装勢力に救援を要請し、武器まで彼らに供与した。コルニーロフのクーデターは、ボリシェヴィキの説得を受けた兵士やコサック兵らがコルニーロフを見捨てたことにより流血に至らないまま失敗に終わり、コルニーロフとその支持者ら7,000人ほどが逮捕された。
 
=== 軍事革命委員会 ===
[[1917年]][[10月10日]](ユリウス暦)、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択した<ref>[http://www.marxists.org/archive/lenin/works/1917/oct/10a.htm Central Committee Meeting—10 Oct 1917<!-- Bot generated title -->]</ref>。ペトログラード・ソビエトは10月12日(ユリウス暦)に[[軍事革命委員会]]を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的として[[メンシェヴィキ]]が提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。彼は権力掌握を承認させるために、[[10月25日]](ユリウス暦)に開会する予定の第二回全国ソビエト大会の時期に合わせて蜂起することを主張した。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、[[社会革命党左派|エスエル左派]]([[社会革命党]]左派)14名、[[アナキズム|無政府主義]]者4名となった。
 
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた。