削除された内容 追加された内容
脚注の追加
94行目:
明治11年([[1878年]])[[6月2日]]には、[[メソジスト|アメリカ・メソジスト教会]]の[[メリマン・ハリス|M.C.ハリス]]から[[洗礼]]を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「'''小さな教会'''」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を[[札幌バンド]]という。
[[File:Sapporo Band.jpg|thumb|180px|札幌農学校の札幌バンドの青年たち]]
在学中、内村は[[水産学]]を専攻し明治14年([[1881年]])7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1449086/199 『北海道帝国大学一覧 昭和8年』北海道帝国大学、1933年10月、p.379]</ref>。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、[[札幌市|札幌]]に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会([[札幌独立キリスト教会]])を創立する。また、明治14年(1881年1)0月に結成された[[札幌YMCA]]の副会長になった。
 
[[File:The 3rd all Japan christian conference clear ver.jpg|thumb|180px|1883年 弟三回全国基督信徒大親睦会。前から2列目左から5人目が内村鑑三、隣は[[新島襄]]。]]
明治15年([[1882年]])に開拓使が廃止されると、[[札幌県]]御用係になり<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779313/308 彦根正三編『〔改正官員録 明治15年9月〕』博公書院、304丁]</ref>、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく[[伝道者]]になるために県に辞職願を提出した。同年6月に辞職願は受理された。その後、[[津田仙]]の[[学農社農学校]]の教師になり、12月からは[[農商務省 (日本)|農商務省]]の役人として水産課に勤め、[[日本産魚類目録]]の作成に従事した。同月の[[第三回全国基督教信徒大親睦会|第三回全国キリスト信徒親睦会]]には、札幌教会代表で有名な演説を行った。
 
=== 最初の結婚・離婚 ===