「フェルディナンド1世 (パルマ公)」の版間の差分

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'''フェルディナンド・ディ・ボルボーネ'''('''Ferdinando(Ferdinando di Borbone''', [[1751年]][[1月20日]] - [[1802年]][[10月9日]])は、[[パルマ公国|パルマ公]](在位:[[1765年]] - 1802年)。
 
== 生涯 ==
フェルディナンドは、パルマ公[[フィリッポ・ディ・ボ1世 (パボーネマ公)|フィリッポ]]と[[ルイーズ・エリザベート・ド・フランス|エリザベッタ・ディ・ボ]](フランス王[[ボーネイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の王女)との第2子で唯一の息子であった。[[1765年]]に父の死により公位を継いだ
 
1769年7月19日、フェルディナンドは[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]とその皇后[[マリア・テレジア]]の六女[[マリア・アマーリア・ダズブルゴ|マリーア・アマーリア・ダズブルゴ]](Maria Amalia d'Asburgo)と結婚した。なお、姉[[マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ|マリア・イサベラ]]は妻マリーア・アマーリアの兄[[ヨーゼフ2世]]の妃であり、[[ブルボン=パルマ家]]と[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の二重結婚であった。
 
パルマ公国は[[1796年]]に[[ナポレオン・ボナパルト]]の侵攻を受けてフランス革命軍に占領された。[[フランス]]の[[統領政府]]が[[スペイン]]や[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]と結んだ1801年の[[アランフエス条約 (1801年)|アランフエス条約]]や[[リュネヴィルの和約|リュネヴィル講和条約]]により、フランスに譲渡された。代償として、フェルディナンドの息子[[ルドヴィーコ1世 (エトルリア王)|ルドヴィーコ]]に[[エトルリア王国]]([[トスカーナ大公国]]に代わって建てられたフランスの衛星国<ref>トスカーナ大公であった[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]]には代償に[[ザルツブルク選帝侯領]]が与えられた。</ref>)が与えられ、またフェルディナンドは名目上のパルマ公位を保持した。しかし、フェルディナンドは翌[[1802年]]に死去した。[[1803年]]には息子ルドヴィーコも早世し、その遺児[[カルロ2世 (パルマ公)|カルロ・ルドヴィーコ]]がエトルリア王位を継いだ。
 
== 子女 ==
* [[カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマ|カロリーナ]](Carolina di Borbone, 1770年11月22日 - 1804年3月1日) - 1792年、ザクセン公子[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]]と結婚。
* [[ルドヴィーコ1世・ディ・ボ (エトボーネリア王)|ルドヴィーコ]](Ludovico I di Borbone, 1773年8月5日 - 1803年5月27日) - [[エトルリア王国|エトルリア]]王。
* マリーア・アントニエッタ(María Antonietta di Borbone, 1774年11月28日 - 1841年2月20日)
* カルロッタ(Carlotta di Borbone, 1777年9月7日 - 1813年4月5日)
* フィリッポ・マリーア(Filippo Maria di Borbone, 1783年5月22日 - 1786年7月2日)
* アントニエッタ(Antonietta Luisa di Borbone, 1784年10月21日)
* ルイーザ・マリーア(Luisa Maria di Borbone, 1787年4月17日 - 1789年11月22日)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
 
== 関連項目 ==
*[[パルマ公国]]
*[[ブルボン=パルマ家]]
 
{{先代次代|[[パルマ公の一覧|パルマ公]]|1765年 - 1802年|[[フィリッポ・ディ・ボ1世 (パボーネマ公)|フィリッポ]]|[[ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス]]}}
 
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