「孔子廟」の版間の差分

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== 朝鮮半島にある孔子廟 ==
[[画像:Shrine of Confucius 대성전.jpg|thumb|朝鮮成均館の文廟大成殿]]
[[朝鮮半島]]では8世紀頃、[[新羅]]が[[唐王朝]]から孔子廟の制度を受け入れ、当時国立最高学部であった[[国学 (律令制の教育機関)|国学]]の内に[[孔子]]の祀廟を設置したことを始まりとし、以後の王朝でもそれを受け継いで[[高麗]]では[[開城]]の「[[国子監]]」、[[李氏朝鮮]]では[[漢城]]の「[[成均館]]」に付随してこれが司る孔子廟を設け、それを「'''文廟'''」({{lang|ko|문묘}})と呼んだ。文廟では、中央に「大成殿」({{lang|ko|대성전}})を建て、孔子と[[孔門十哲|その弟子十人]]、[[周敦頤]]・[[朱子]]などの[[宋 (王朝)|宋代]]の[[朱子学|朱子学者]]、及び[[崔致遠]]・[[鄭夢周]]・[[李滉]](李退渓)・[[李珥]](李栗谷)等の朝鮮半島の有名儒学者を、大成殿の両翼に「東廡」(とんこぶ・{{lang|ko|동무}})・「西廡」(せいぶ・{{lang|ko|서무}})の建物を設け、漢・唐以来の中国の儒学者と朝鮮半島の儒学者たちを共にも祀っていた。
 
{{lang|ko|동무}}西廡」(せいぶ・{{lang|ko|서무}})の建物を設け、漢・唐以来の中国の儒学者と朝鮮半島の儒学者たちを共にも祀っていた。
 
地方でも成均館を倣って官学の「郷校」に孔子を祀る祀堂を置いた。なお、15世紀以後では、儒教の民間への拡散と共に各地で私塾である[[書院 (東アジア)|書院]]の設立が盛んとなり、書院でも必ずや孔廟が建てられ、孔子と儒学者たちを祀った。書院はのち各地の郷里[[士林派|士林]]の根拠となり、中央政治にも大きな影響を及ぼった。有名な書院で「[[陶山書院]]」などがある。