「川路聖謨」の版間の差分

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冬将軍 (会話 | 投稿記録)
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m rv.「自刃」は刃物を用いた自殺であり、この場合は銃も使っているため表現として不適切。
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安政5年([[1858年]])には[[堀田正睦]]に同行して上洛、朝廷に[[日米修好通商条約]]の承認を得ようとするが失敗、江戸へ戻った(条約は弟の[[井上清直]]と[[岩瀬忠震]]が朝廷の承認が無いまま[[タウンゼント・ハリス]]と調印)。[[井伊直弼]]が[[大老]]に就任すると[[一橋派]]の排除に伴い[[留守居|西丸留守居]]役に左遷され、更に翌年の[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。[[文久]]3年([[1863年]])に勘定奉行格[[外国奉行]]に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで[[徳川慶喜|一橋慶喜]]関係の御用聞きのような役回りに不満があったようで、病気を理由として僅か4ヶ月で役を辞する。
 
引退後は、中風による半身不随や弟の井上清直の死など不幸が続いた。慶応4年(1868年)、割腹の上[[拳銃|ピストル]]で喉を撃ち抜いて自した。[[享年]]68。忌日の3月15日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であった。[[勝海舟]]と新政府側の[[西郷隆盛]]の会談で[[江戸城]]開城が決定したことを知らず、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも、[[江戸開城]]の報を聞き、滅びゆく幕府に殉じたとも言われている。ピストルを用いたのは、半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。
 
「天津神に 背くもよかり [[伯夷・叔斉|蕨つみ 飢えにし人]]の 昔思へは」という辞世の句を残し、横に「徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」と自書している。