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'''ギリシャ・イタリア戦争'''(ギリシャ・イタリアせんそう、Greco-Italian War)[[1940年]][[10月28日]]から[[1941年]][[4月6日]]まで、[[枢軸国]]の[[イタリア王国|イタリア]]と[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の[[ギリシア]]との間で戦われた[[第二次世界大戦]]の戦争を指す。
 
==背景==
[[バルカン半島]]の一国家である[[アルバニア]]を併合していたイタリア政府は、親英国であるギリシャを介して連合軍側がアルバニアやイタリア南部へ干渉してくる可能性を危惧していた。当時、[[北アフリカ]]でも英軍との戦闘が行われており、徒な戦局拡大を避けるべきとの軍の反対を黙殺して[[ベニート・ムッソリーニ]]はギリシャへの遠征を命じた。ムッソリーニはアルバニアに駐屯する10万5000名に加え、本土から新たに召集した部隊6万名を加えた軍勢で攻撃を企てたが、時間の都合から新兵の多くは訓練が不十分なまま戦地に投入されており、錬度の面で問題があった。また同様に短期間で戦力を集める為にアルバニア人部隊も設立されたが、忠誠度は高いと言い難かった。更に戦車戦力の確保の為に、北アフリカに送る手筈だった1000輌の戦車を投じており、これによって北アフリカでの勝利の機会が永久に失われた。
 
その他にも冬季装備の欠乏や補給ルートの脆弱さ、地形に対する情報の少なさが指摘されていたが、ムッソリーニがこうした意見に耳を傾ける事は無かった。
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1940年10月28日、[[セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ]]将軍率いる7個師団10万名がギリシャへ侵攻を開始、一部の部隊が30kmの地点まで突出するなど幸先の良い成果を上げていたが、パパゴス将軍指揮下の[[ギリシャ軍]]5個師団は、険しい山岳地帯が殆どを占めるギリシャの土地柄を活用した伏兵や不正規戦闘でイタリア軍部隊を苦しめた。また季節柄、零下にまで冷え込む冬のギリシャは冬季装備を持たないイタリア軍に追い討ちをかけた。次第に深まるギリシャの山々を越えるにはロバか人力しかなく、進軍速度は思うように上がらなかった。北アフリカからの援軍要請を無視してまで送った戦車隊も、山岳地帯では有効な成果を挙げることができなかった。過酷な戦いに耐えかねたアルバニア人兵士の脱走も相次ぎ、中にはパルチザン化して友軍たるイタリア軍兵士に武装解除される者まで現れる始末であった。
[[File:Tripla occupazione greca.gif|thumb|right|280px|戦後のギリシア占領の様子。水色がイタリアによる部分。赤い部分はドイツ。緑はブルガリア。青はイタリアの既存の領土]]
結局イタリア軍は[[エピルス]]での戦いに敗北し、進行は大きく頓挫した
 
===英軍と独軍の参戦===
戦争を楽観視していたムッソリーニはここで考えを改め、司令官の罷免と軍の増派を決定する。かくしてギリシャ軍とその地形を過小評価していたヴィスコンティ・プラスカ将軍は罷免され、新たに[[ウバルド・ソッドゥ]]将軍が指揮官に着任。戦力面では本国から6個師団の投入が決定するものの、戦局は好転せず、ギリシャ軍にアルバニアへの逆侵攻を許す有様だった。ギリシャ戦争の泥沼化の責任を取って[[ピエトロ・バドリオ]]元帥が罷免される。代わって[[ウーゴ・カヴァッレーロ]]将軍が参謀総長に就任した後も戦争継続の意志は変わらず、国境地帯で激しい山岳戦が繰り広げられた。
 
一方その頃、同じバルカン半島の国である[[ブルガリア]]と[[ユーゴスラビア]]が枢軸側に立って参戦、ドイツ軍がブルガリアへの進駐を開始していたが、枢軸側参戦から数日後にユーゴズラビアで親英派の[[ドゥシャン・シモヴィッチ]]([[:en:Dušan Simović]])将軍によるクーデターが決行され、同国は連合国側に寝返ってしまった。[[アドルフ・ヒトラー]]は不安定化したユーゴズラビアへの介入を決断、対ソ戦を延期して[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアへ南下する]]。ムッソリーニはヒトラーの要請に応じて軍部隊をユーゴズラビアへ派遣(これらの伊軍部隊はその後二次大戦終戦まで[[チトー]]の[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]討伐に明け暮れる事になる)し、またドイツ軍もギリシャ戦線へ3個軍団を援軍として投入。既に本土から新たに数個師団の増援を得ていたイタリア軍はドイツ軍と共に攻勢に転じ、挟撃されたギリシャ軍は総崩れになる。4月23日、ギリシャ政府はイタリア政府に降伏を申し入れ、これをイタリア側が受領した事で戦争は終結した。
 
{{Main|ギリシャの戦い}}