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== ルクレールと死 ==
リゴーは[[1802年]]トゥーサンの排除とサン=ドマング再植民地化を図った[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の義弟の[[シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール|シャルル・ルクレール]]率いるフランス遠征軍と共にサン=ドマングに戻った。[[フランス第一共和政]]下で[[19741794年]]に奴隷制が廃止されて、[[サトウキビ]]と[[コーヒー]]の[[プランテーション]]で利益を上げていた植民地システムが崩壊した。ルクレールの遠征は奴隷制の再建を企てたものであった。3年に亘る戦争の末ハイチ共和国軍はサン=ドマングをタイノ語の[[ハイチ]]に戻し独立を果たした。リゴーは遠征の失敗の責任を負わされ、ライバルのトゥーサンと共にフランスへ送られ、トゥーサンが亡くなったと同じ[[ジュー要塞]]に一時収監された。リゴーは最後の反乱として船上でそのサーベルを海へ投げ捨てた。
 
[[1810年]]12月リゴーはペションにも[[アンリ・クリストフ|クリストフ]]にも反した[[南県 (ハイチ)|南県]]を領域とする''半島国''の大統領に自ら就任し3度目の帰還を果たした。死後半島国はペションに回復された。