「伊東甲子太郎」の版間の差分

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冬将軍 (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
=== 出自 ===
[[天保]]5年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]](1835年1月1日)、[[常陸国|常陸]][[志筑藩]]士(郷目付)鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。忠明が家老との諍いによって隠居した後、伊東が家督を相続したものの、後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、一家は領外へ追放される。伊東は[[水戸市|水戸]]へ遊学し、[[水戸藩]]士・[[金子健四郎]]に剣術([[神道無念流剣術]])を学び、また、[[水戸学]]を学んで[[勤王]]思想に傾倒する。追放後の忠明は高浜村東大橋(現[[石岡市]])にて村塾(俊塾)を主宰し、帰郷した伊東も教授に当たった。後に江戸[[佐賀 (江東区)|深川中川町]]の[[北辰一刀流剣術]]伊東道場に入門するが、道場主の伊東誠一郎に力量を認められて婿養子となり、'''伊東大蔵'''と称した。[[元治]]元年8月当時[[水戸藩]][[戸田銀次郎]]の家来であり、妻の名前はみつといい、えいという娘がいたことが記録されている<ref>「上 拾七番組」播磨新宮池田家記録、[[東京大学史料編纂所]]</ref>。
[[ファイル:Kashitarou Itou Shinsengumi.jpg|サムネイル]]