「哲学館事件」の版間の差分

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かなり大規模に修正。大学昇格に関する記述は削除すべきか思案中。検証可能な史料がなければ削除すべきであろう。
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==概要==
[[旧制]][[中等教育]]学校([[中学校]]、[[高等女学校]]、[[師範学校]])の[[教員]]無試験検定資格は、本来官立の[[高等師範学校]]卒業者に与えられるものとして制度設計されていたが、[[哲学館]]([[東洋大学]]の前身)の[[井上円了]]はこれを[[私立学校]]卒業生にも開放すべきと主張し、[[1898年]](明治31年)に[[國學院]]・[[東京専門学校]]等と共に[[文部省]]への陳情活動を行った結果、翌[[1899年]](明治32年)2月7日、「[[勅令]]第二十八号」で定められた「[[中学校令]]」第十三条が改正され<ref>『早稲田大学百年史』 第一巻、915-916ページ。</ref>、同年7月にこれら3校は中等教員無試験検定資格を認可された<ref>『東洋大学百年史』 通史編Ⅰ、306ページ</ref>。
明治の初め、学校の卒業と同時に無試験で教員になることができたのは国立の学校のみで私立にはその権利がなかった。しかし、{{要検証範囲|哲学普及のために|date=2017年10月}}教育者を育成することを目標としていた私立哲学館の[[井上円了]]は私立学校にも卒業生に対して{{疑問点範囲|無資格|date=2017年10月}}で教員となることができるよう、[[1890年]](明治23年)から当時の[[文部省]]に対して陳情を行っていた。文部省からなかなか良い返事をもらえなかった井上は、{{要検証範囲|[[学校法人慶應義塾|慶應義塾]](現在の[[慶應義塾大学]])、國學院(現在の[[國學院大學]])、[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](現在の[[早稲田大学]])と私立学校の連合を組んで|date=2017年10月}}{{Efn|『早稲田大学百年史 第一巻』によれば攻玉社、明治法律学校、済生学舎、物理学校なども参加している。}}再度陳情を行い、[[1899年]](明治32年)に{{要説明範囲|[[旧制中等教育学校|中等学校]]の教員免許|date=2017年10月}}について、卒業と同時に無試験で認可されることとなった。
 
1902年(明治35年)には{{疑問点範囲|この43校で|date=2017年10月}}最初の卒業生が誕生し、私立学校ではじめての無試験教員{{要説明||date=2017年10月}}が誕生する{{疑問点範囲|はずであった|date=2017年10月}}{{Efn|哲学館からは既に1902年7月に修身科と漢文科から卒業生が誕生している。}}。しかし、哲学館の教育部第一科である教育倫理科の卒業試験の答案<ref name="founder09"/>を検定した[[視学制度|視学官]]・[[隈本有尚]]が、倫理学教師・[[中島徳蔵]]の出題した内容を問題視した<ref name="founder09"/>。「動機が善でも悪となる行為はあるか」という課題である<ref name="founder09"/>。これに対して学生が「結果だけをみて善悪を判断してはいけない。そうしなければ、自由のための弑逆も罪となってしまう」と回答したが、これは[[イギリス]]の哲学者{{仮リンク|ジョン・ヘンリー・ミュアヘッド|en|John Henry Muirhead}}<ref name="founder09"/><ref name="gakuhou74431"/>{{Efn|「ムーアヘッド」・「ムイアヘッド」・「ミュィアヘッド」・「ミューアヘッド」読み有り。松本清張・著『小説東京帝国大学』では「ムイアヘッド」。}}の著作『倫理論』を教科書とした授業におけるもので<ref name="founder09"/><ref name="gakuhou74431"/>、[[清教徒革命]]における君主の処断を是としたミュアヘッドの学説に添った回答であった<ref name="founder09"/>。{{要検証範囲|この考え方は当日の法理哲学においては学会の標準的な考え方であったが|date=2017年10月}}、{{要検証範囲|隈本は哲学館の教育方針について「目上を殺落としたしてよいということは天皇も殺してよいということだ。この思想は国体を危うくする恐れがある」という見解をまとめた|date=2017年10月}}{{Efn|視学官の隈本有尚は「教授法を改正すれば認可を取消すにも及ぶまいといふ考」えだったと述べている(『読売新聞』明治36年1月29日)。}}。その結果、{{要検証範囲|文部省は哲学館の廃校も前提に|date=2017年1012}}{{Efn|1903年2月1613日付で無試験検定資格認可を取り消した<ref>時事新報』に掲載された 第五八三七号(明治35年12月16日)</ref>。哲学館幹事安藤弘が文部省に出向いて取り消し見解では「私立学校の撲滅策理由講ぜん」と問い質したところ、「哲学館ない其閉鎖も申すき所なれども、予ねいる。}}教育方針同館変更内情も察すこととが故に認可取消の命令に留めおくものり」との説明を受け{{つ|date=2017う<ref>『東洋大学百10月}}史』 資料編Ⅰ・下、511-512ページ</ref>。また、中島も哲学館と[[東京高等工業学校]]の講師を論旨退職へと追いやられた
 
翌年1月、中島は『[[読売新聞]]』などの都下[[新聞]]各紙に「余が哲学館事件を世に問う理由」を投稿。それに対して「当事者たる隈本視学官の談」が『読売新聞』に掲載される。中島が「文部省視学官の言果して真ならば」で再反論すると、文部省は2月16日付の『[[時事新報]]』で「哲学館事件に関する文部省当局者の弁疏」で自らの見解を明らかにした。
この事件は[[私立学校]]における教育の自由や学問の自由に関する議論となった。当時の新聞紙上では私学の自由を犯すものであるという見解が出る一方で、そもそもこの思想を教授した方法に問題があったのではないかという擁護論{{要説明|date=2017年10月}}も交わされた。こうした状況は[[帝国議会]]でも問題となった。ミュアヘッドも文部省の見解に対してイギリスから反論するなど、{{要検証範囲|日英間の国際問題となりかけた。そのため、文部省は廃校勧告を取り消し|date=2017年10月}}、{{要検証範囲|哲学館の[[教員免許]]無試験認可を取り消すこととした|date=2017年10月}}{{いつ|date=2017年10月}}{{Efn|なお哲学館は失った資格を、1907年(明治40)に回復した。}}
 
これらの論戦が展開されると、都下諸新聞諸[[雑誌]]では私立学校における教育の自由や学問の自由に関する議論が活発化し、[[衆議院]]でもこの事件に関する質疑応答がなされるに至った。
 
また、『倫理学』の著者ミュアヘッドも英国から「弁妄書」を『ジャパン・クロニクル』紙に寄稿し、訳者の桑木厳翼も論争に参加した。当時の倫理学界の中心的存在だった丁酉倫理会の主要会員が連名で、1903年(明治36年)3月10日、「ム氏の動機説を教育上危険と認めず」と論断を下したことで世論はようやく収束の方向へと向かっていった。
 
この後、哲学館は東洋大学となり、[[1928年]]([[昭和]]3年)に大学令([[1919年]]([[大正]]8年)施行)による大学となるが、申請をした{{いつ|date=2017年10月}}{{How|date=2017年10月}}にもかかわらず{{Efn| 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』によれば東洋大学が初めて申請書類を提出したのは昭和2年1月19日である。}}他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、早稲田大学、國學院大學などは[[1920年]](大正9年)に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと当時の{{いつ|date=2017年10月}}新聞は論説を書いている{{full|date=2017年9月}}。また、公文書の開示結果{{出典無効|date=2017年9月}}、1920年(大正9年)に既に{{要検証範囲|認可できる要件|date=2017年10月}}は整っていたが {{Efn|『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』によれば東洋大学は昭和2年の時点でも認可できる要件は整っていなかった。}}、この事件が影響して認可できないという内容が残されていることが判り{{full|date=2017年9月}}、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された{{誰2|date=2017年9月}}。
 
哲学館事件は当時も多数の媒体によって取り上げられ注目された日本の教育史では大きな一つのトピックとなっており<ref name="nenpou17">「『哲学館事件』文献年表」『井上円了センター年報17号』 三浦節夫・編、東洋大学井上円了記念学術センター、2008-09-20、pp154-93。</ref>、<ref>新聞での扱いは同時期に起きた[[教科書疑獄事件]]よりはやや小さかった。</ref>{{独自研究範囲|[[松本清張]]の『小説東京帝国大学』([[1969年]](昭和44年)、新潮社)が、この事件から始まっているように小説や論説の題材としても使用されている。|date=2017年10月}}
 
== 大正後期の東洋大学 ==
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問題は更に一転して[[境野事件|曩の紛擾]]を繰返すべき形勢にあると。|『東京朝日新聞』大正13年10月8日}}
 
* 大正後期の東洋大学は内紛続きで<ref>[[境野事件]]を参照。</ref>、昇格運動どころではなかった。
* 大正後期の東洋大学は内紛続きで<ref>東洋大学創立百年史編纂委員会, 東洋大学井上円了記念学術センター 『東洋大学百年史』{{要ページ番号|date=2017年10月}}、三浦節夫 『ショートヒストリー 東洋大学』 {{要ページ番号|date=2017年10月}}などに多くの記述あり。</ref>、{{要出典範囲|date=2017年10月|昇格運動どころではなかった<!--内紛が多くあったことと、それが原因で昇格運動どころでなかったことは別で、前者をもって後者を導くことは独自研究。-->。
* 東洋大学が実際に申請書類を提出したのは昭和2年が最初である}}<ref>『東洋大学百年史』 通史編Ⅰ、988ページ</ref>
 
== 開示された公文書 ==
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== 関連文献 ==
*清水清明 『哲学館事件と倫理問題』『哲学館事件と倫理問題 続』 清水清明・編、 文明堂、1903年。
**[[みすず書房]]、1989年4月初版、2005年オンデマンド版。
*東洋大学 『東洋大学創立五十年史』 1937年
*東洋大学 『東洋大学八十年史』 1967年
*高木宏夫 『井上円了の教育理念』 1987年
*東洋大学創立百年史編纂委員会・東洋大学井上円了記念学術センター 『東洋大学百年史』 資料編Ⅰ・下、学校法人東洋大学、1989年
*東洋大学創立百年史編纂委員会・東洋大学井上円了記念学術センター 『東洋大学百年史』 通史編Ⅰ、学校法人東洋大学、1993年
*三浦節夫 『ショートヒストリー 東洋大学』 学校法人東洋大学、2000年
 
== 関連項目 ==
* [[教育]]
* [[私立学校]]
* [[視学制度]]
* [[文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験]]
* [[教科書疑獄事件]]
 
== 外部リンク ==