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朝鮮では親清派が臨時政権を樹立したが、独立党の人士や朴・金ら亡命者たちの家族も数多く朝鮮に残った。彼らは殺害されたり、[[禁固刑]]となったり、あるいは[[自殺]]するなど、ほとんどが悲惨な結末をたどった<ref name="o128"/><ref name="kinefuchi109"/>。徐光範と徐載弼の父母妻子は絞殺に処せられ、金玉均の養父は国王の配慮で[[養子]]縁組が解除されたものの、実父は捕らえられ、金玉均と一緒に処刑するため獄につながれた<ref name="o128"/><ref name="kinefuchi109"/>。政変に参加した独立党員の身内には「[[族誅]]」が適用され、従者や幼い子どもも含めむ家族が残忍な方法で処刑された<ref name="kinefuchi109"/><ref group="注釈">族誅とは、重罪を犯した者の3親等までの近親者を残忍な方法で処刑すること。</ref>。
 
クーデタの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、そのうちの徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った<ref name="kang233"/><ref group="注釈">日本に亡命したのは、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、[[李圭完 (官僚)|李圭完]]、[[申応煕]]、[[柳赫魯]]、[[辺燧]]、[[鄭蘭教]]の9名であった。[[#呉|呉(2000)p.135]]</ref>。亡命した金玉均は[[小笠原諸島]]の[[父島]]や[[札幌]]など日本各地を転々としたが、日本政府からは冷遇されて再起計画に絶望し、ついには清国の北洋大臣[[李鴻章]]を説得するため、[[1894年]]([[明治]]27年)3月、[[上海]]に渡った<ref name="mizuno162"/><ref name="kang233"/>。しかし、[[3月28日]]、44歳の金玉均は、同地において朝鮮国王の放った刺客[[洪鐘宇]]によって暗殺された<ref name="unno61"/><ref name="kang233"/>。その遺体は[[朝鮮半島]]に移送された後に[[凌遅刑]]に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。金の妻と子は、甲申政変の失敗から10年間生死不明で行方知らずとなったのち、[[1894年]](明治27年)12月[[忠清道]][[沃川郡|沃川]]の近傍で当時[[東学党の乱]](甲午農民戦争)鎮圧の任にあたっていた日本軍によって偶然発見され、保護された。そのときの2人は実に憐れむべき姿だったという。
 
政変は失敗に帰したものの、このできごとは近代国家の樹立をめざした民族運動のさきがけとしての歴史的意義を有する<ref name="mizuno162"/>。問題は、それが朝鮮民衆の支持を欠いており、もっぱら外国勢力(日本)の力を借りようとしたことであり、その意味で、それが最終的に外国勢力(清国)の介入によって失敗に終わったのも無理からぬところがあった<ref name="mizuno162"/>。結局のところ、新政権を守るための防衛対策を怠ったことがクーデタ挫折の原因だったのである<ref name="kang233"/>。