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このグラウンドの狭さから、当たり損ねの打球がフラフラと外野フェンスを越えて本塁打になってしまうなど、投手泣かせの球場であった。[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]OBの[[中西太]]は本球場で[[バット (野球)|バット]]を折りながらも打球を外野スタンドへ入れたと言われている。[[杉浦忠]]、[[皆川睦雄]]ら南海黄金時代のエース級[[投手]]の絶妙な制球力はグラウンドの狭さによって培われたとの説もある。
 
[[1951年]]、関西地区の球場で初めて夜間照明設備を設置。同年に初[[ナイター]]を開催(南海対[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]戦)。内野スタンドに日本初のボックス席を設けたのも本球場である。[[1950年代|1950]] - [[1960年代|60年代]]は[[鶴岡一人]]監督率いる南海の黄金期であり、毎年優勝争いを繰り広げており関西では南海は阪神をしのぐ人気球団であった。南海電鉄も出資者であった[[毎日放送]]は1959年に当球場での南海戦の独占テレビ中継契約を結び、この年に南海が日本一を達成したこともあって社史にこの契約を「一大ヒット」と記した<ref>永井・橋爪(2003)、150頁</ref>。しかし、この成功を背景に翌年南海側が放映権料をつり上げたことで毎日放送は契約範囲を縮小(ホームゲーム35試合の優先放送)、さらに1961年には南海との交渉を断念して、テレビの野球中継自体を大幅に縮小し、テレビでの露出が減少する結果を招いた<ref>永井・橋爪(2003)、152頁</ref>。また、この当時のエピソードとして[[1963年]]8月29日の南海対阪急戦で、雨による2時間14分の中断後、グラウンドに[[ガソリン]]を撒いて火を付け水分を蒸発させ試合を再開させたというものがある<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/photos/20140923/npb14092311480004-p4.html 【追憶のスタジアム(5)】大阪球場 南海ホークス黄金期の舞台(4)]</ref>。これは勝ち試合であることや日本記録ペースで本塁打を量産していた[[野村克也]]がこの試合でも1本打っていたためにそれを生かしたいという南海サイドの思惑によるものだった。なお、現在は[[消防法]]によりこのような行為は禁止されている。
 
1960年代半ば以降はプロ野球のテレビ中継において在京キー局の発言力が増大し、放送カードが[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦が多くを占めるようになった。その結果、関西では唯一同じセ・リーグ所属の阪神に「巨人の対抗馬」として人気が集中、前記の経緯による南海戦の中継減少もあいまって、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の人気は長期低落傾向をたどった。さらに[[1970年代]]後半以降の南海の急激な弱体化で本球場の観客動員数は低迷を極めた。[[ミナミ]]のド真ん中、南海本線の終点である難波駅南口の南西側駅前という好立地にも関わらず<ref>本来鉄道会社が球団経営する場合、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]における[[西武ドーム|西武球場]]、[[阪神タイガース|阪神]]における[[阪神甲子園球場|甲子園]]のように自社の鉄道沿線に本拠地球場を構えて、自社鉄道の運賃収入に貢献させるのが常策だが、大阪球場は大阪市営地下鉄・近鉄でも来場可能であり([[阪神なんば線]]は当時未開業)、運賃収入が全く見込めなかったことから、南海電鉄側でも球団の売却が労使闘争で常に槍玉に上がる状況だった。</ref>球場を管理していた大阪スタヂアム興業の社史には、本球場の年間観客動員の実数が[[1965年]]以降、南海最終年の[[1988年]]まで一度も50万人を超えなかったことが記されている(公式発表上では1988年の91万5千人が球団史上最多動員であった)。