「岡本綺堂」の版間の差分

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| birth_place = [[東京府]][[東京市]][[芝区]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1872|11|15|1939|3|1}}
| death_place = 東京府東京市[[目黒区]][[上目黒]]
| resting_place = [[青山霊園]]
| occupation = [[小説家]]、[[劇作家]]
| language = [[日本語]]
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1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。[[1923年]]9月1日の[[関東大震災]]で[[麹町]]の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の[[額田六福]]の家に身を寄せ、その後[[麻布]]、翌年[[百人町]]に転居。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の[[芸術院]]会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『[[サンデー毎日]]』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年「虎」が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。
 
1939年、[[目黒 (目黒区)|目黒]]の自宅にて気管支炎により肺浸潤を併発して死去。戒名は常楽院綺堂日敬居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)67頁</ref>。[[青山墓地]]に葬られる。没後、元書生で養嗣子の[[岡本経一]]が綺堂作品の保存普及を目的として出版社「青蛙房」を創立した。現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。
 
また、没後に経一の寄付金をもとに戯曲を対象とする[[文学賞]]である岡本綺堂賞[http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kenkyu/furok_KIDOUaward.htm]が創設されたが、[[日本文学報国会]]が運営していたため、終戦とともにわずか2回で終了した。