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|casualties2=損害大
 
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'''閑山島海戦'''(かんざんとうかいせん)は、[[文禄の役]]における海戦の一つ。
[[文禄]]元年([[1592年]])7月7日に閑山島と[[巨済島]]の間の海峡で単独出撃をした[[脇坂安治]]率いる1500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり」</ref><ref>文禄4年正月15日付「高麗国動御人数帳」『島津家文書957号』</ref><ref>三鬼清一郎「朝鮮役における水軍編成について」『名古屋大学文学部二十周年記念論集』
名古屋大学文学部、1969年、268-269頁 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/9907</ref>の[[水軍]]を、朝鮮水軍が誘引迎撃戦術により撃破した海戦。
 
 
== 海戦の背景 ==
[[文禄]]元年([[1592年]])4月の釜山上陸以来、見るべき抵抗の無かった朝鮮南岸に対し、侵攻作戦こそ無いものの策源地の釜山を中心に番外の所隊が支配領域拡大のために展開をしていた。5月に入ると、これらの部隊の海上移動にあたっていた海運部隊が李舜臣を中心とする朝鮮水軍の襲撃を受けた。
 
 
=== 玉浦・泗川湾・唐浦の戦い ===
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名古屋大学文学部、1969年、268-269頁 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/9907</ref>であることを考えると、発見数と戦果は過大申告である。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)。
 
韓国では、脇坂安治の軍の兵力が5000~12000人、戦死者数5000~9000人などとする、史実・資料を鑑みないまま、つまり全く学術的な方面を無視して、兵力・死傷者を10倍に誇張した創作的な主張が行われているが、日本と韓国の史料にそのような記述は存在しない。日本側の史料である『「天正記」第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり」』や「高麗国動御人数帳(島津家文書957号)」に記載されている脇坂安治の兵数は1500人である。また、[[石高]]が3万石程度の大名である脇坂安治が、5000人以上の兵力を動員することは不可能であり非現実的である。3万の石高を鑑みれば1500人の動員数は妥当である。慶長の役においても、脇坂安治の動員数は1200人<ref>「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書</ref>である。1600年の関ヶ原の合戦での脇坂安治の動員数は900人であった<ref>参謀本部 関ヶ原役</ref>。
 
文禄の役での動員数の例<ref>吉川弘文館、中野等、文禄・慶長の役、p33</ref>
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[[脇坂安治]]、3万石、動員1,500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり」</ref>
 
 
この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。
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李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船21隻・中船15隻・小船6、と記録している。
 
 
== 海戦後の動向 ==
7月14日に閑山島海戦での脇坂軍の敗北を知った秀吉は、積極的な艦隊出撃による海上決戦を禁止し、水陸共同による沿岸迎撃作戦への転換を指令し、武器弾薬や沿岸防備の増強を行った。この戦術転換は当時の水軍からすれば有効に機能しており、以降の李舜臣による水軍攻撃は成果が上がらなくなり被害が大きくなり出撃も減ることとなる([[釜山浦海戦]]、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。
 
 
== 海戦の評価 ==