「アパルトヘイト」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
102行目:
これらを受け、[[1989年]]9月に大統領に就任した[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]はこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、[[1990年]] 2月、ANC やPAC、南ア共産党を合法化し、[[ネルソン・マンデラ]]を釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていた。その後南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。この混乱は1991年から1994年4月の総選挙実施まで続き、多くの死者を出した。
 
アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織と[[インカタ自由党]] (IFP。ズールー族系)との武力衝突が{{仮リンク|トランスヴァール州|en|Transvaal Province}}(現[[ハウテン州]]など)、[[ナタール州]](現[[クワズール・ナタール州]])で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期された。1993年4月には白人極右<ref>{{Harvtxt|レナード・トンプソン|1995|p=462}}</ref>の指示によって一人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だった{{仮リンク|クリス・ハニ|en|Chris Hani}}を殺害した。また、一部のホームランドが独立の維持を望み統合に反対する動きを起こし、[[ボプタツワナ]]政府などはアパルトヘイト維持を掲げる白人右翼[[アフリカーナー抵抗運動]](AWB)と連携して抵抗したものの、ボプタツワナ軍の反乱によってボプタツワナ政府は崩壊し、アフリカーナー抵抗運動の党首だった{{仮リンク|コンスタンド・フィリューン|en|Constand Viljoen}}は穏健派を率いて新党「{{仮リンク|自由戦線プラス|en|Freedom Front Plus|label=自由戦線}}」を設立し、選挙へと参加した。1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。最後まで抵抗していたインカタ自由党も選挙実施数日前に選挙参加を決め、すべての有力勢力が全人種選挙へと参加することとなった。
 
1994年4月にようやく全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。