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大局的には[[1848年革命]]で[[ウィーン体制]]が動揺し、[[ユグノー]]に寛大な[[プロイセン王国]]が台頭した。ここでより大切な点は経済的国情であり、プロイセンは[[メリノ種|メリノ・ウール]]の無敵ともいえる国際競争力を武器とし、特にロシアに対する経済的な影響力を獲得したのである。カトリックの[[ハプスブルク帝国]]としては、ライバルの羊毛生産に貢献したコッカリル([[:en:John Cockerill (company)|Cockerill]])を[[ベルギー]]の金融シンジケートに落ち着け、またローマ教皇とも息を合わせて[[啓蒙思想]]による産業合理化を進めた。しかし[[普墺戦争]]に敗れてしまった。
 
ベルギストリアの[[ツ・ヨーゼフ1世通貨同盟]]は苦肉の策参加していた。1867年そこで[[アウスグライヒ]]でロシアへ地理的に接近し、同の1867年9月、親ハンガリーかつ新教徒迫害歴のある[[ザルツブルク]]で[[フランツ・ヨーゼフ1世]]が[[ナポレオン3世]]と会見したのである。ナポレオンは1867年4月、[[オットー・フォン・ビスマルク]]に[[ルクセンブルク]]買収計画を挫かれていた。ナポレオンは[[リソルジメント]]に対する影響力を用いて[[教皇庁]]を守るという連携に出たが、[[普仏戦争]]に敗北して武力的な戦略がとれなくなった。しかし、ドイツがイタリアにもつ経済的な影響力は資金力が脆弱な兼営銀行に限定されていた。そして[[アルザス]]・[[ロレーヌ]]を奪われたフランス大資本がベルギーを通してロシアへ投資を繰り出すようになった。
 
==真の火薬庫イスタンブール==