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翌[[1993年]]、アメリカチャンピオンになりツールドフランスを迎えた。第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントで区間優勝。数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くも[[グランツール]]での勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。
そして、同年[[オスロ]]で行われた[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]のロードレース種目では単独の逃げを決め、[[ミゲル・インドゥライン]]、[[オラフ・ルードヴィッヒ]]、[[ヨハン・ムセウ]]といった並み居る強豪を抑えて優勝。21歳<ref>史上最年少での優勝とされることがあるが、史上最年少での優勝は[[1934年]]の[[カレル・カールス]]の20歳46日で、ランスは史上3番目の年少記録での優勝である。</ref> で世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。ちなみにこの年のアマチュア部門のロードレースの優勝が後に好敵手となる[[ヤン・ウルリッヒ]]である。
[[1995年]]は前年2位に入っていた[[ツアー・デュポン]]で優勝したほか、[[クラシカ・サンセバスティアン]]でも優勝。クラシックスペシャリストとしての地位を高めた後、[[ツール・ド・フランス1995|ツール・ド・フランス]]へ出場。途中チームメイトの[[ファビオ・カサルテッリ]]をレース中の[[落車]]事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にファビオが一番取りたいと語っていたリモージュステージにて優勝を遂げた。
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=== エクステラ参戦 ===
その後、ランスは[[エクステラ]]([[マウンテンバイク]]を利用した[[オフロード]]版[[トライアスロン]])への参戦を表明し、引き続きTREK社のバイクを用いて<ref name="tweetmeme.com">http://tweetmeme.com/story/7373746191/lance-armstrong-triathelete-xterra-off-road-championships-2011-flickr-photo-sharing {{リンク切れ|date=2015年1月}}</ref>、アメリカチャンピオンシップで5位となった。
2011年10月23日、[[ハワイ]]・[[マウイ島]]のカパルア地区で開催されたエクステラ世界選手権大会に参戦。[[オープンウォータースイミング|スイム]]を5位で通過。上位入賞が期待されたものの、バイクコースの終盤で落車し、頭部を強打してしまう。一時は[[棄権|リタイア]]の危機に瀕するものの、無事に完走し、675人中の23位でゴールした。
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=== トライアスロン復帰 ===
「アームストロングが[[トライアスロン]]大会に参戦する」という情報は、ロードレースに復帰した[[2009年]]からネット上で散見されていた<ref>http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=12234</ref><ref>http://www.aloha-street.com/news/2010/10/post-1988.html</ref> が、実際の出場には至らなかった<ref>http://tdffan.exblog.jp/15822916/</ref>。
しかし、[[2012年]][[2月]]、アームストロングは[[ツイッター]]にて、{{仮リンク|アイアンマン・トライアスロン|en|Ironman Triathlon}}への参加を宣言<ref>http://bikejournal.jp/main/?p=3171</ref>。世界中で2,800万人を数える癌患者へ応援メッセージを送り、世界中の人々に癌への関心を高めてもらうことを今回の参戦の目的だと表明した<ref>http://www.cyclesports.jp/depot/detail.php?id=3619</ref>。同時に、トライアスロン大会においても、[[トレック・バイシクル|トレック]]社の[[タイムトライアルバイク]]を使用することが明らかにされた<ref>{{cite web |url=http://www.trekbikes.co.jp/news/detail.php?eid=00220 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2012年2月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120515053047/http://trekbikes.co.jp/news/detail.php?eid=00220 |archivedate=2012年5月15日 |deadlinkdate=2017年9月 }}
アームストロングは、復帰第一戦として同月12日に[[パナマ]]で行われたアイアンマン・パナマ70.3に出場。これは[[オープンウォータースイミング|スイム]]1.
スイムは1位から34秒遅れの10位でクリア、バイクでは5秒遅れの2時間46分17秒、2位でクリア。バイクラップ自体は1位の{{仮リンク|クリス・リエト|en|Chris Lieto}}がアームストロングを約15秒上回る結果となった。
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また、今後は、[[10月]]に[[ハワイ島]]の[[カイルア・コナ|コナ地域]]で開催される世界選手権を目指すことも明らかになっている<ref>http://www.goocycle.jp/news/detail/5955.html</ref>。
なお、アイアンマン大会のプロカテゴリーで世界選手権に出場するには、世界各地での大会を転戦して複数のポイントを獲得し、ランキング50位以内になる必要がある<ref>http://triworldjapan.com/2012/02/10/lance-armstrong%E6%AD%A3%E5%BC%8F%E3%81%AB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%B8/</ref>。このため、アームストロングは、2012年だけで、[[4月1日]]のアイアンマン70.3アメリカ選手権・[[テキサス州|テキサス]]、[[5月20日]]のアイアンマン70.3[[フロリダ]]、[[6月2日]]のアイアンマン70.3ハワイ、[[6月24日]]のアイアンマン・フランス([[ニース]])に出場する予定である<ref>http://www.cyclowired.jp/?q=node/76913</ref>。
[[4月1日]]に行われたアイアンマン70.3アメリカ選手権では、地元であるテキサスでの開催ということもあり、優勝への期待が高かったが、呆然としながら7位でゴールするという結果に終わった。ゴール時には、自身の愛娘がゲート付近で祝福しようと待ち受けていたが、アームストロングはそれに気づかず、通り過ぎるという一幕もあった<ref>http://www.youtube.com/watch?v=WIObAsCBjxU</ref>。
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=== ドーピング疑惑と処分 ===
* 2012年8月24日、全米アンチドーピング機関(USADA)は[[1998年]][[8月1日]]以降の記録を全て抹消し、アームストロングに対し、「永久追放」宣告を行う。<ref name="1st stage's start">[http://www.cyclingnews.com/news/usada-bans-armstrong-for-life-disqualifies-all-results-since-1998 USADA bans Armstrong for life, disqualifies all results since 1998] - cyclingnews.com 8月24日付{{en icon}}</ref><ref>
* 10月22日、[[国際自転車競技連合]](UCI)は[[スポーツ仲裁裁判所]](CAS)には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表<ref name="uci"
* 2013年1月17日、14日に収録されたインタヴューが放送され、アームストロング本人がドーピングを認めた<ref name="s"/><ref name="nikkei"/><ref>[http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=19653 アームストロング・インタビュー前半:物足りない告白、サイクリング界のダヴィンチコード?しかし言葉の裏に見え隠れする真実が!「ドーピングに引っかからないことが“健康管理”だった」当時のUCIの責任も重く] - CYCLINGTIME.com 2013年1月18
{{Main|ランス・アームストロングのドーピング問題}}
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USADAによる裁定の翌日にあたる2012年[[8月25日]]、[[コロラド州]]アスペン-スノーマスで行われたマウンテンバイクの大会に出場した<ref>http://www.afpbb.com/article/sports/cycling/2897219/9412060</ref>。
また、同年[[9月30日]]には、[[サンディエゴ]]のコロナドで開催されたスーパーフロッグ・トライアスロン大会に参戦。スイム1.
2013年1月に自ら過去のドーピングを認めた後、アームストロングは、[[マスターズ水泳|マスターズ]]競泳大会(4月5 - 7日・テキサス州オースティン)に出場する動きを見せたが、最終的に出場を取りやめた。アームストロングは40 - 44歳の部の自由形3種目にエントリーしたが、[[国際水泳連盟]]が素早く反応し、4日に米国のマスターズ競泳大会を統括する団体に対し「この大会は[[世界反ドーピング機関]] (WADA) 傘下である」との文書を送付し、出場を認めないよう求めた<ref>{{cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20130405-OHT1T00092.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013年4月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130410180251/http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20130405-OHT1T00092.htm |archivedate=2013年4月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}
また、アームストロングは[[テキサス州]][[オースティン]]に1.7[[エーカー]](約6900平方メートル)の広大な自宅を所有していたが、同年四月に会社経営者に売却したと伝えられた<ref>http://www.afpbb.com/article/sports/cycling/2938356/10571559</ref>。しかしながらアームストロングは、自宅を売り払った後も引き続きオースティンに住む意向を示しているという。
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ともすれば「つまらない走り」と評されることも多かったが、2002年は2日続けての頂上ゴール制覇や2003年の第15ステージのアタック、2004年には山岳だけで4勝を含む6勝(TT、チームTT含む)をはじめとして山岳ステージではたびたび激しいアタックを見せた。
また[[ツール・ド・フランス2000|2000年のツール・ド・フランス]]で[[マルコ・パンターニ]]に僅差で敗れた際に「(ドーピング騒動からの復帰に)敬意を表して最後は手を抜いたんだ」と発言してパンターニを激怒させたり<ref name="jsports.co.jp">http://www.jsports.co.jp/cycle/lance_history.html</ref>(著書では「先に行けよ」と慣れないイタリア語で声をかけたが、「のろま!」と聞かれてしまった。とも書かれている)、2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで、死の今際にいる母のためにツール・ド・フランスでの初勝利を渇望していた[[イヴァン・バッソ]]と[[一騎討ち]]になったとき勝利を譲って、王者の貫禄を見せたかと思いきや、次の第13ステージで再び一騎討ちになった時は容赦なくスプリントしてステージ優勝したり、ドーピングを自白しランスの薬物使用を示唆したフィリッポ・シメオーニのアタックを大差の付いた状態にもかかわらず即座に潰しに掛かるなど、かつての攻撃的な性格の一端を垣間見ることが出来るエピソードは多い。
一番大切な人は母だと語っており、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」の中でも「母は自分のために献身的になんでもしてくれた」と感謝を表す文が何度も登場する。また、最大のライバルとして何度も優勝争いを演じたウルリッヒについても、引退後に「選手として本当に大好きだった」と愛の告白に近い賞賛さえ贈っている<ref
== エピソード ==
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== 機材 ==
現役時代、機材に対しては、多くのプロ選手と同じく保守的な面を見せていた。
* ペダルについては、[[LOOKサイクルインターナショナル|LOOK]]ペダルを[[シマノ]]が[[パテント]]購入して開発したPD-7401<ref>パテント品であるためか、デュラエース系の7000番台がついていながら、同シリーズではない。</ref> を2001年まで愛用していたが、既に廃版となっていたため、チームのメカニックは在庫が残っていないか、アメリカ中の小売店に電話をかけて探したという。さらには、シマノから派遣されていたメカニックが個人的に持っていたペダルを譲り受けてまで、同モデルを使い続けたというエピソードが残っている。その後シマノが「アームストロングほどの選手が廃版モデルを使い続けるのは、マーケティング上問題がある」という理由で、“新生7401”SPD-SLシステム「PD-7750」を開発。2002年からはそれを愛用するようになった。ちなみに、このペダルの開発コードネームは「PDランス」。名前から分かるとおり、本来はランス専用モデルだった(SPD-SLはルック・タイプを元にしており、従来型のSPD-Rとは全く異なるビンディングの構造を持っていることからもそれが分かる)。
* ただ復帰時には、メインコンポネートがSRAMに切り替わってしまった事もあり、PD-7750の後継機であるPD-7810をチョイス出来ないランスは、本家LOOK製のkeo blade carbonに変更した。
* サドルはサンマルコ社の定番モデルであるコンコール・ライトを愛用している。アームストロングが使用するのは特に、サドル上面に刺繍のないモデルであり、年々登場する新モデルを使用することはなかった。
* ハンドル・バーのクランプ径は近年登場した31.8mmのオーバーサイズではなく、旧来の26.0mmのものを、タイヤはユッチンソンの廃盤モデルであるOROを使い続けていた。
* ディスカバリーチャンネル所属時にチームが使用していたコンポーネントは、シマノの[[シマノ・デュラエース|デュラエース]]。シマノはランスが[[トライアスロン]]選手時代から機材を供給しており、シマノ製品で[[ツール・ド・フランス]]を制したのは、ランスが初めてだった(ランスが引退した後、残った選手の多数とブリュイネール監督が合流した[[アスタナ・チーム|アスタナ]]は、引き続き[[トレック・バイシクル|トレック]]社のバイクを使用しているが、コンポーネントは[[SRAM (自転車メーカー)|SRAM]]に切り替えた)。ただアスタナから離れレディオシャックとなった後もシマノには戻さずSRAMのままである。
* 山岳ステージでは、[[変速機 (自転車)#デュアルコントロールレバー|STIレバー]]の左側をブレーキレバーに交換し、フロントディレイラーの変速には、ダウンチューブに装着した伝統的なシフター([[変速機 (自転車)#ダブルレバー|Wレバー]])を使って変速していた。こうしたセッティングは主に軽量化が目的とされ、ランス以外の選手でも行うケースがあったが、機材の最低重量がUCI規定で決まっており(6.
* 上記に関連するが、[[トレック・バイシクル|トレック]]が、ランスの現役時には、Wレバーに対応した最上級モデルのバイクを出荷していたが、2007年からは対応しなくなっており、影響の大きさをうかがい知る事が出来る。
* また、エクステラ参戦時にはトレック・[[ゲイリー・フィッシャー|ゲイリーフィッシャー]]コレクション29erMTB「スーパーフライ」を使用した<ref
== 主な成績 ==
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{{世界自転車選手権男子エリート個人ロードレース優勝者}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ああむすとろんく らんす}}
[[Category:アメリカ合衆国の自転車選手]]
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