「田宮虎彦」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
画像追加 |
|||
12行目:
[[1957年]]、亡妻との往復書簡が『愛のかたみ』の題名で[[光文社]]から刊行され[[ベストセラー]]となり多くの日本人が感動した。しかし、『[[群像]]』[[1957年]]10月号で[[平野謙 (評論家)|平野謙]]が「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」で夫婦観や文学観を「変態的」と評論し<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=YERZh9rucO8C&pg=PT40 『愛と死について考える』]田中澄江、PHP研究所, 1994</ref>、[[1980年]]7月には[[小田切秀雄]]がカルチャーセンターの講義で「平野謙さんから聞いた話」として、田宮のことを「『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」と発言<ref>大川渉『文士風狂録』194頁</ref>。これに対し、田宮は『新潮』1980年10月号に小文「トルストイとスターリン」を発表し、抗議した。
[[1988年]]1月に[[脳梗塞]]で倒れ[[玉川病院|日産玉川病院]]にて療養、右半身不随になり、同年[[4月9日]]午前9時15分頃、同居人である旧友の子息の不在中に東京都港区北青山2丁目の[[マンション]]11階ベランダから[[飛び降り|投身]][[自殺]]
長男の[[田宮兵衛]]は気候学者で[[帝京平成大学]][[教授]]、次男の[[田宮堅二]]はトランペット奏者で[[桐朋学園大学]][[教授]]。
|