「足利藤氏」の版間の差分

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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = 不詳
| 死没 = 不詳([[永禄]]9年([[1566年]])よりを最後に消息を絶つ不明
| 改名 = 幸千代王丸([[幼名]])→藤氏
| 別名 =
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== 生涯 ==
第4代古河公方である足利晴氏の長男として生まれる。母は[[簗田高助]]の娘。[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝|足利義藤(後の義輝)]]から[[諱#偏諱授与の風習|偏諱]]を与えられており、将来は京都の室町幕府からも認められた次代古河公方となるはずであった。
 
ところが、父晴氏は後添えの正室として[[北条氏綱]]の娘・[[芳春院 (曖昧さ回避)|芳春院]]を迎えていたが、氏綱の跡を継いだ[[北条氏康]]との関係次第に悪化。晴氏は[[関東管領]]の[[上杉憲政]]や[[上杉朝興]]らと同盟して[[後北条氏|北条氏]]と対抗するも、[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])の[[河越夜戦]]で大敗した。氏康は晴氏を隠退させ、異母妹である芳春院の息子で、北条の血を受けた[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]](藤氏の異母弟)を古河公方とした。
 
古河公方への道を絶たに対し藤氏はこれに反発し、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に挙兵して[[古河城|古河御所]]奪還を試みるが失敗し、父・晴氏は[[栗橋城]]に幽閉され、藤氏も追放された。それでも[[安房国|安房]]の[[里見義堯]]を頼って再起の機会を窺い、これに従う[[簗田晴助]]ら[[越後]]に滞在中の関東管領・[[上杉憲政]]と憲政を庇護していた長尾景虎(後の[[上杉謙信]])に救援を依頼した。[[永禄]]4年([[1561年]])、[[小田原城の戦い (1560年)|景虎はついに関東へ出兵]]。藤氏救援という名目だけでなく関東管領上杉憲政、[[関白]]の近衛前久を擁し大義名分を十分に得た軍勢は関東の諸豪族の応援で10万余にまで膨れ上がった。[[小田原城]]ら諸城に籠城する北条方を攻め切れなかったものの、藤氏は義氏を放逐して古河御所の奪還に成功した。
 
上杉憲政に代わって関東管領の本来の職務である古河公方擁立に成功した長尾景虎は、上杉憲政から上杉の家督と関東管領の地位を譲られた。上杉謙信(便宜上、以後は謙信とする)は、上杉憲政、近衛前久らと諮り、義氏の古河公方就任を完全に否定し、関白、関東管領の名において藤氏を足利晴氏(前年死去)の後継として正式に古河公方として任命することを決定した<ref>越相同盟締結時に北条氏は[[国府台合戦]]の戦功によって古河公方から関東管領に任ぜられ、その職権で義氏を古河公方にしたと主張(伊佐早文書所収「北条氏康条書」)しているように、北条氏は上杉氏の関東管領としての権威そのものを否認する立場を取っており、上杉氏は関東管領として義氏に代わる古河公方を必要としていた。</ref>。これを[[佐竹氏]]・[[里見氏]]ら反北条氏の関東諸大名も受け入れたため、数年の間、足利藤氏は正統な古河公方となったのである。
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だが、謙信が藤氏を残し越後に帰国すると直ちに北条氏は反撃を開始し、その年の[[10月]]には古河を攻撃したので、藤氏は里見氏家臣の[[多賀信家]](蔵人・高明)が治める[[上総国|上総]]池和田城([[千葉県]][[市原市]])へ逃れた。以後、古河を巡って上杉と北条は争奪戦を繰り広げ、藤氏も上杉方の代表として古河に入ったり上総に脱出したりを繰り返した。だが、永禄5年([[1562年]])に北条軍が古河御所を攻略した際に藤氏は捕虜となって小田原に送られた。
 
その後藤氏の身柄は[[相模国|相模]]・[[伊豆国|伊豆]]といった北条領内を転々としたとされるが、永禄9年(1566年)以降はその消息が不明。北条氏康によって処刑[[暗殺]]されたといわれている。
 
古河公方・足利藤氏を失ったことにより、上杉謙信の関東経営は大打撃を受け、後に[[越相同盟|北条氏との同盟]]締結された時に、唯一のって古河公方となったである[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]を謙信は正式に認めざるを得なくなる。一方で、藤氏の弟の家国、藤政、輝氏が古河公方の再興を目指し活動した形跡も確認されているが、その影響力は微々たるものであり、[[天正]]年間を境にその活動はみられなくなる。
 
== 脚注 ==