「長谷川海太郎」の版間の差分

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[[File:Hasegawa-Kaitaro-hi.jpg|right|thumb|160px|鎌倉市妙本寺の海太郎夫妻の墓石横に建てられた碑]]
1935年6月、『一人三人全集』の完結した2週間後に鎌倉の自宅で35歳の若さで急死。持病の喘息の発作だったという。この時に連載中の作品として、『講談倶楽部』2作の他に谷譲次名「新巌窟王」、林不忘名「時雨伝八」「蛇の目定九郎」「白梅紅梅」、牧逸馬名「大いなる朝」「虹の故郷」「双心臓」があった。絶筆となった「都会の怪異 七時0三分」は、『[[日の出 (雑誌)|日の出]]』編集者の[[和田芳恵]]が先に聞いていた結末部分を書き足して掲載された。また文壇付き合いのなかった梅太郎の通夜には、和田芳恵の他、嶋中雄作、『[[オール読物]]』編集長の菅忠雄、元東京日々学芸部長の新妻莞に3人が付き添った。戒名は慧照院不忘日海居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)267頁</ref>。墓所は[[鎌倉市]][[比企谷]][[妙本寺]]、海太郎が腰を下ろして想を練ったという巨石の上に墓石が立てられた。この超多忙な中の急死にあって[[菊池寛]]は「ジヤアナリズムが、作家に無理な仕事をさせなくなるとすれば、我々に取っては、一つの救いである。」(『文藝春秋』1935年10月号)とも書いている。
 
死後にも[[川口松太郎]]「新篇丹下左膳」、[[谷屋充]]「新作丹下左膳」、[[陣出達朗]]「女左膳」などの左膳ものが書かれ、映画・演劇化も数多く行われている。