「ヒューストン・アストロズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
93行目:
[[1994年から1995年のMLBストライキ]]によってシーズンが中断した{{by|1994年}}には[[ナショナルリーグ中地区]]に移動。監督に[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]が就任し、チームカラーも長年親しまれてきたレインボーカラーから紺と金を基調としたカラーに変更された。この年にはバグウェルが打率.368・39本塁打・116打点という驚異的な成績を残し、ナ・リーグ[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]を獲得。ビジオも39盗塁を記録し、[[最多盗塁 (MLB)|盗塁王]]を獲得した。また、シーズンでは首位レッズに0.5ゲーム差の地区2位でシーズンを終え、翌{{by|1995年}}、{{by|1996年}}も地区2位となるなど、次第にチームも上位に進出する機会が多くなる。
 
コリンズ監督は口数が多く、ビジオらスター選手とはそりが合わず解任された<ref name="maj200809"/>。{{by|1997年}}には、[[ラリー・ダーカー]]が監督に就任したが、(メジャーでは異例である)18年間もテレビ解説者を務めた後の就任で采配や手腕を疑問視された<ref name="maj200809"/>。しかし、84勝78敗ながら久々の地区優勝を果たした。この頃にはビジオ、バグウェル、[[デレク・ベル (野球)|デレク・ベル]]の3人がチームの中軸として活躍し、'''キラーB's'''(キラービーズ、殺人[[ハチ|蜂]]の意味で[[アフリカナイズドミツバチ]]の俗称。全員3人の名字の頭文字が「B」で始まることから名づけられた)と呼ばれ、他球団から恐れられた。翌{{by|1998年}}は球団記録となる102勝60敗で地区優勝、トレード期限の7月31日には[[ランディ・ジョンソン]]を獲得した。{{by|1999年}}も97勝65敗をあげ、地区3連覇を果たした。しかし、いずれもディビジョンシリーズで敗退し、リーグ優勝は果たせなかった。
 
=== 初のワールドシリーズ ===