「ポール・ゴーギャン」の版間の差分

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Hkoki (会話 | 投稿記録)
m タヒチ語の地名のカタカナ表記。英語読みでしたので、タヒチ語の発音に近づけました。~~~~
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1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先として[[タヒチ]]を思い描いていた。[[1891年]]2月にパリの{{仮リンク|オテル・ドゥルオー|en|Hôtel Drouot}}で行った売立てが成功し、旅行資金ができた<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 125)]]。</ref>。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼された[[オクターヴ・ミルボー]]が好意的な批評を書いたことによるものであった。コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 127)]]。</ref>。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 157-67)]]。</ref>。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 143)]]。</ref>。
 
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだ[[パペーテ]]で過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、『{{仮リンク|ファタタ・テ・ミティ(海辺で)|en|Fatata te Miti (By the Sea)}}』や、『{{仮リンク|イア・オラナ・マリア|ca|Ia Orana Maria}}』といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 182)]]。</ref>。
 
[[ファイル:Gauguin - Die Gesandten der Oro.jpg|thumb|right|200px|ゴーギャンのノート(時期不詳、[[ルーヴル美術館]])。]]