「大相撲」の版間の差分

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ロウ病 (会話 | 投稿記録)
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=== 江戸時代 ===
興行としての相撲が組織化されたのは、[[江戸時代]]の始め頃(17世紀)とされる。これは[[寺社]]が建立や移築のための資金を集める[[興行]]として行うものであり、これを「'''勧進相撲'''」といった。[[1624年]]、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり[[喧嘩]]が絶えず、[[浪人]]集団との結びつきが強いという理由から、[[1648年]]から[[幕府]]によってたびたび[[禁止令]]が出されていた。
 
ところが、[[1657年]]の[[明暦の大火]]により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が[[生業]]が立たず争い事が収まらなかったため、[[1684年]]、[[寺社奉行]]の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の[[雷 (相撲)|雷権太夫]]がいて、それが[[年寄名跡]]の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の[[富岡八幡宮]]境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や[[本所]][[杉山和一#本所一つ目|江島杉山神社]]、[[蔵前八幡]]、[[芝大神宮|芝神明社]]など)で不定期に興行していたが、[[1744年]]から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲[[渡世]]が濃くなり、[[1733年]]から[[隅田川花火大会|花火大会]]が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた[[両国]]橋左岸の本所[[回向院]]で[[1768年]]に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは[[1833年]]のことである<ref>{{PDFLink|[http://www.kcf.or.jp/fukagawa/pdf/03010090003501.pdf 「大相撲の歴史と深川(4)」]}}[[深川江戸資料館]] 資料館ノート106号、2014年11月16日発行、2016年1月5日閲覧。</ref>。
 
『相撲傳書』によると、この頃は[[土俵]]はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9[[メートル|m]](44 - 5[[間]]の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには[[リング_(格闘技)|格闘技のリング]]のように柱の下紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に[[四神]]を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(1313[[尺]]の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。
 
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は[[朝廷]]の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた[[番付]]も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では[[1757年]]のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。<!--各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある([[日下公人]]「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74)。 この人は研究者ではないでしょう-->
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</ref>。[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。
 
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。
 
[[1827年]]、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の[[吉田司家]]に認めた。
 
[[幕末]]に「相撲VS[[レスリング]]」や「相撲VS[[ボクシング]]」の[[異種試合]]が行われた事がある。また、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]]の[[マシュー・ペリー]]提督が[[黒船]]で来航した[[1853年]]6月11日に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出ている。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。
 
[[1863年]][[6月3日]]、大阪北新地で壬生浪士組(後の[[新選組]])と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の[[熊川熊次郎]]([[肥後国|肥後]]出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の[[志士]]となった者もいた。
 
=== 明治・大正 ===