「大相撲」の版間の差分
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=== 江戸時代 ===
興行としての相撲が組織化されたのは、[[江戸時代]]の始め頃
ところが、[[1657年]]の[[明暦の大火]]により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が[[生業]]が立たず争い事が収まらなかったため、[[1684年]]、[[寺社奉行]]の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の[[雷 (相撲)|雷権太夫]]がいて、それが[[年寄名跡]]の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の[[富岡八幡宮]]境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社
『相撲傳書』によると、この頃は[[土俵]]はなく「人方屋」という見物人が直径
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は[[朝廷]]の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた[[番付]]も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では[[1757年]]のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。<!--各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある([[日下公人]]「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74)。 この人は研究者ではないでしょう-->
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</ref>。[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行
[[1827年]]、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の[[吉田司家]]に認めた。
[[幕末]]に「相撲VS[[レスリング]]」や「相撲VS[[ボクシング]]」の[[異種試合]]が行われた事がある。また、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]]の[[マシュー・ペリー]]提督が[[黒船]]で来航した[[1853年]]6月11日
[[1863年]][[6月3日]]、大阪北新地で壬生浪士組
=== 明治・大正 ===
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