「山本七平」の版間の差分

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| birth_place = [[東京府]][[荏原郡]][[三軒茶屋]](現在の[[東京都]][[世田谷区]]三軒茶屋)
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1921|12|18|1991|12|10}}
| death_place = [[東京都]][[千代区]]の自宅[[四番町 (千代田区)|四番町]]
| resting_place = <!--墓地、埋葬地-->[[小平霊園]]
| occupation = [[山本書店]]店主、評論家
| language = [[日本語]]
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* [[1979年]] - [[大平内閣]]の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長を務める 。
* [[1984年]] - [[中曽根内閣]]の諮問機関「[[臨時教育審議会]]」の第一部会専門委員を務める 。
* [[1991年]] - [[膵癌|膵臓癌]]により[[千代田区]][[四番町 (千代田区)|四番町]]の自宅で死去した<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)345頁</ref>。遺骨の一部は[[イスラエル]]で[[散骨]]された。
 
=== 受賞歴 ===
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=== イザヤ・ベンダサンとの関係 ===
==== 山本による説明 ====
当初『日本人とユダヤ人』の[[|著者]]ではないかと言われることについて、山本は「私は[[著作権]]を持っていないので、[[著作権法]]に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、[[編集者|エディター]]であることも、ある意味において[[コンポーザー]]であることも、否定したことはない。」とも述べている<ref>山本七平「ベンダサン氏と山本七平氏」『実業の日本』1977年10/1(1899号)49-50頁</ref>。
 
後に、[[1987年]]の[[PHP研究所]]主催の研究会では以下のように説明している。
 
山本書店を始めた頃に[[帝国ホテル]]のロビーを[[原稿]]の[[校正]]作業にしばしば使用していたところ、[[フランク・ロイド・ライト]]のマニアということがきっかけで、ジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。[[キリスト教]]が日本に普及しないのはなぜかという問題意識のもと、3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちに、まとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。ベンダサン名での著作については、ローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。ローラーは[[在日米軍]]の海外大学教育のため来日していたアメリカの[[メリーランド大学]]の教授で、1972年の[[大宅壮一ノンフィクション賞]]授賞式にはベンダサンの代理として出席した。ホーレンスキーは[[特許]]関係の仕事をしている[[ウィーン]]生まれのユダヤ人、妻は日本人<ref>山本七平「一出版人の人生論」『Voice』[[PHP研究所]]、1992年3月、特別増刊山本七平追悼記念号、28-30頁</ref>。
 
==== 山本死後の扱い ====
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[[Category:菊池寛賞受賞者]]
[[Category:青山学院大学出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1921年生]]
[[Category:1991年没]]