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桜花の着想は、航空偵察員[[大田正一]][[士官#特務士官|海軍特務少尉]]が、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が母機(爆撃機)から投下する遠隔操作・無線誘導・ロケット推進の[[対艦ミサイル|対艦ミサイル(対艦誘導弾)]]である([[イ号一型甲無線誘導弾]]・[[イ号一型乙無線誘導弾]])を開発中との情報を得て、イ号一型甲製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞きだし、誘導装置の精度が悪く実用化にはほど遠いと知り、誘導装置を人間におきかえるのが一発必中を実現する早道だと確信して、大田が東大に足を運んだところから軌道に乗る<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫511頁</ref>。しかしながら、三菱開発のイ号一型甲はジャイロ安定装置と遠隔操作用無線機器の不具合により計画破棄されたものの、並行して開発が進められていた[[川崎航空機|川崎]]開発のイ号一型乙は結果的に実用化の域に達しており、空襲の影響から実戦投入は出来なかったものの終戦までに150機が量産されていた。またさらに陸軍では[[誘導爆弾|対艦誘導爆弾]]として、[[赤外線]]自動追尾式の[[ケ号爆弾|ケ号自動吸着弾(ケ号爆弾)]]や、音響自動追尾式の[[イ号一型丙自動追尾誘導弾]]も並行して開発を行っている。当然ながら、陸軍が組織的に開発していたこれら四種の対艦兵器は機械を誘導装置とする先進的な無人誘導兵器であり、人間を誘導装置とする海軍の有人対艦兵器たる桜花とは全く異なる物である。
 
この大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の[[小川太一郎]]教授だった{{#tag:ref|小川は後に特攻兵器[[梅花]]を発案した人物でもある|group="注釈"}}。実験に協力した[[谷一郎 (物理学者)|谷一郎]]東大教授によれば「昭和十九年夏、東大航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田正一海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。私に求められたのは、木村秀政助教授の描いた三面図を基に、風洞実験の助けを借りて、空気力学的特性を推定することであった。仕事自体はさほど困難ではないが、特攻機が母機を離れた後は、生還の可能性の全くないことを知って私はたじろいだ。」という<ref>海空会『海鷲の航跡』原書房43頁</ref>。
 
[[1944年]]([[昭和]]19年)5月[[第一〇八一海軍航空隊]]が開隊。直後に十一航艦司令部より大田が転勤してくる。大田は司令の[[菅原英雄]]中佐に対して桜花の構想を明かす。菅原司令は、任務外の新兵器開発に奔走する大田を黙認して、航空技術廠長[[和田操]]中将に電話で技術上の検討を依頼<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁</ref>。5月、6月ごろ菅原の推薦によって、大田は和田に桜花を提案した<ref>戦友会編『海軍神雷部隊』p6</ref>。航空技術廠[[三木忠直]]技術少佐の戦後証言によれば、和田はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁</ref>。
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# 充当兵力は中攻100〜200機を考慮する。ただし訓練期間は23〜30機でよい。いずれにせよ捷号作戦には間に合わない。充当兵力は1.捷号作戦以外の兵力、2.捷号作戦で残った兵力、3.練習中のものから充当する。
 
8月中旬から各航空隊で桜花の搭乗員募集が始まった。海軍省人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いの無いものから募集するという方針が出された。編成準備委員長は[[岡村基春]]となった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』p69 - 80</ref>。桜花の搭乗員は志願者の中から練度の高いパイロットが選ばれた。飛行時間1000時間前後のパイロットが中心に集められ、予備士官でも300時間以上はあった<ref>御田重宝『特攻』講談社414頁</ref>。堂本吉春(桜花要員)は、桜花を見た時の感想として「『これがわしの棺桶か』と思いましたね。どうせやるなら半年前にやってほしかった、とそんな気持ちでした。そのくせ『いい飛行機だなあ』と思ったことも事実でした。あの時代ですからね。死ぬのは仕方ないとみんな思っていたのではないですか」と話している<ref>御田重宝『特攻』講談社414-415頁</ref>。湯野川守正(桜花要員)によれば、桜花は投下後は250ノットの高速だが、操縦しやすく自由自在で、零戦のようなエンジン機では急降下で機首が浮くが桜花はそういったこともなかったという<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ220-224頁</ref>。[[艦上攻撃機]]の搭乗員より桜花要員を志願した鈴木英男大尉の印象は「爆弾に翼をつけたようなものでこれが飛行機か?と思ったが、今まで乗ってきた艦攻も魚雷に翼がついたようなものだから、そう驚きはなかった。戦闘機に乗っていた連中はぎょっとしたのでは?」と艦攻との比較でさほどの驚きを感じなかったと述べている<ref>特攻最後の証言制作委員会『特攻 最後の証言』文春文庫 P.25</ref>
 
軍は桜花の操縦が難しいと考え、桜花要員には上記の様に練度が高い搭乗員を集めたが、実際に操縦してみると多くの桜花要員が操縦性は非常に良かったという印象で、高度な操縦技術がなくても十分に操縦できると言う事が判り、後期には[[九三式中間練習機]]しか搭乗経験がないような搭乗員も桜花訓練を受けるようになっている<ref>特攻最後の証言制作委員会『特攻 最後の証言』文春文庫 P.32</ref>
 
桜花 (K1) の訓練は各人一回だけでそれを終えると技量Aになった<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ220頁</ref>。保田基一(桜花要員)によれば、事前に零戦で降下スピード感覚に慣れるための降下訓練を行うという。エンジンを徐々に絞ると飛行機が沈むが、できるだけエンジンを低回転にして着陸する。最後にはデッドスローで着陸を行うという<ref>御田重宝『特攻』講談社408頁</ref>。堂本吉春(桜花要員)によれば、桜花の訓練は一式陸攻に吊られた桜花を鹿島灘上空から落としてもらい、神ノ池基地の滑走路に着陸するが、桜花にも浮力があり母機から離れないので懸吊装置を爆薬で切って落とすような仕掛けになっており、切り離された瞬間、振動も音もなく奇妙な感触で、200、300メートル沈む、着陸コースに入ったらフラップを下して機首を上げ、100ノット(180キロ)くらいのスピードに調整して着陸する、その間2、3分の滞空だという<ref>御田重宝『特攻』講談社415頁</ref>。桜花を切り離す際は母機より信号があり、桜花要員が桜花に搭乗完了し「用意よろし」というと、母機についている赤いランプが「ト・ト・ト・ツー・トン(・・・-・)」と点滅し桜花要員に切り離しの信号を送った後に、切り離されるという手順だった。この切り離しの信号は誰ともなしに「おわりマーク」と名付けられていた<ref>特攻最後の証言制作委員会『特攻 最後の証言』文春文庫 P.29</ref>
 
桜花の滑空訓練で、刈谷勉分隊長ら2名の死者が出ている<ref>御田重宝『特攻』講談社377頁</ref>。
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桜花の初陣は、1945年3月[[九州沖航空戦]]であった。
3月21日までに、通常攻撃と特攻により、[[第58任務部隊]]にかなりの損害を与えていると判断していた第5航空艦隊は{{#tag:ref|実際に空母フランクリンとワスプを大破させ、イントレピッドやエンタープライズやエセックスにも損傷を与えていた|group="注釈"}}、偵察機が発見した機動部隊に直援機が見られなかった事より、損傷艦と誤認しトドメをさす好機到来と判断し、桜花部隊の出動を決めた。
 
しかし、3月18日には164機もあった5航艦の戦闘機も、3日に渡る九州沖航空戦の激戦で損失や損傷や故障が相次ぎ、桜花部隊の護衛の戦闘機は神雷部隊で32機、203空からの応援が23機で合計55機しか準備できなかった<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.283</ref>それを知った神雷部隊司令[[岡村基春]]大佐は、援護の戦闘機が少ないことと目標が遠距離であることから中止を5航艦司令部に上申した。5航艦長官[[宇垣纏]]中将は「今の状況で使わなければ使うときがないよ」と言って断行した。当時得られた情報では計画通りの目標であったためである<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』p201 - 202</ref>。
 
桜花出撃中止を宇垣中将に上申したのは岡村大佐ではなく、5航艦参謀長[[横井俊之]]大佐であったという証言もある。横井大佐は[[第一航空戦隊|第1航空戦隊]]参謀や[[横浜海軍航空隊]]司令などを歴任した海軍航空の専門家で、[[マリアナ沖海戦]]では空母[[飛鷹 (空母)|飛鷹]][[艦長]]として参加し、アメリカ軍の防空能力を熟知していた<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』光人社NF文庫 P.100</ref>出撃の命令が出た後に、横井参謀長より護衛機が55機と聞かされた岡村司令が「参謀長、もっと戦闘機を出せませんか?」と食って掛かると<ref>中島正 猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』P.144</ref>作戦の困難さを十分理解していた横井参謀長は「岡村大佐が55機で不安であれば、出撃を中止せざるを得ないと思われます。」と宇垣中将に出撃中止を進言したが、宇垣中将は岡村大佐の肩に手を置くと、諭すように一語一句ゆっくりとした口調で「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と言い、岡村大佐は「ハッ、やります」と決然と云って挙手をすると、サッと作戦室を後にしたという<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.286</ref>岡村大佐はこの出撃を待ち受けてる悲惨な状況に、危険性が高い任務には指揮官が先頭に立たねばならないと考え、野中少佐に「今日は俺が行く」と言ったが<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.6</ref>野中少佐は「お断りします。司令、そんなに私が信用できませんか!今日だけはいくら司令のお言葉でも、ごめんこうむります」と言葉を荒らげて拒否している<ref>中島正 猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』P.145</ref><ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』P.223</ref>野中少佐の人柄より{{#tag:ref|5航艦付[[中島正]]少佐によれば「猛虎のような男」<ref>中島正 猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』P.145</ref>|group="注釈"}} 一度言った事は絶対に撤回しないと岡村大佐は熟知していた為、そのまま出撃は野中少佐に譲ったが、後年に、この時を回顧する度に岡村大佐の目は涙でいっぱいだったという<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.290</ref>
[[ファイル:Mitsubishi G4M2e with Okha under attack 1945.jpeg|thumb|250px|アメリカ軍戦闘機のガンカメラで撮影された、神雷桜花部隊野中隊の一式陸攻]]
その後、野中少佐は飛行場の陸攻指揮所に行く途中、飛行長[[岩城邦広]]少佐に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは[[湊川の戦い|湊川]]の戦いだよ」と言った<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p18、加藤浩『神雷部隊始末記』p202</ref>。
一方で、自ら「野中一家」と名乗り見事に統率してきた隊員らに対して「野郎ども集まれ」と呼集をかけると<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』光人社NF文庫 P.110</ref>「ただいまより敵機動部隊撃滅に向かう(中略)ただいま以降、攻撃開始までは無線中止とする。どんな弱い電波も出しちゃならねえ。(中略)待ちに待った時がきたのである。日頃鍛えに鍛えた訓練の成果を示す時が来たのである。戦わんかな最後の血の一滴まで国に捧げる時が来たのである。諸士の健闘を望む。」と普段の[[江戸言葉|べらんめえ口調]]を交えながら訓示を行って士気を鼓舞している<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p18</ref><ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.204</ref>「野中一家」の通例であった勇壮な陣太鼓が打ち鳴らされる中で、部下の若い搭乗員らも野口少佐の意気に応えるように、出撃時には「行って来まアす」と大声を出し、遠足に出ていく子供の様に笑顔で手を大きく振りながら出撃して行ったと、当時報道班員として神雷部隊の取材をしていた作家[[山岡荘八]]が述べている{{#tag:ref|山岡荘八は鹿屋基地近くに立つ2軒の平屋の内の1軒に他の報道班員と滞在、神雷部隊隊員と寝食を共にし2ヶ月に渡って取材をしている。もう1軒の平屋は神雷部隊司令岡村大佐の宿舎であった。|group="注釈"}}<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.291</ref>
 
1945年[[3月21日]]、神雷部隊は第一回神雷桜花特別攻撃隊(第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊)を編成、沖縄を攻撃中の米機動部隊に向けて出撃させた<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p17</ref>{{#tag:ref|[[野中五郎]]少佐指揮による[[一式陸攻]]18機(うち隊長機3機は桜花未搭載)、桜花15機、護衛の[[零式艦上戦闘機|零戦]]55機の編成。|group="注釈"}}。
出撃から30分も経たない内に、23機の護衛戦闘機が故障等により帰還、野中隊に随伴してる戦闘機は神雷部隊の直援戦闘機19機と[[岡嶋清熊]]少佐率いる203空の間接援護機11機の合計30機になってしまった<ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』p228</ref>護衛戦闘機の離脱が相次いでる事、また、その後の索敵で、先に発見していた目標の機動部隊は3群に分れていた内の1群であり、3群合計で7隻以上の空母を発見、当初の見込みよりも遥かに戦力が大きい事も判明し<ref>中島正 猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』P.146</ref>一部の参謀から野中隊へ帰還命令を発するよう宇垣中将に進言があったが、宇垣中将はこれを聞き入れなかった<ref name="a">御田重宝『特攻』(講談社文庫、1991年) ISBN 4-06-185016-4 </ref>。宇垣中将が本日の出撃にここまで拘った理由として、陣中日記「[[戦藻録]]」の記述によれば「18日来特攻兵力の使用の機を窺い続け、(中略)今にして機会を逃せば再び梓隊の遠征を余儀なくされ、しかも成功の算大ならず、如かず今神雷攻撃を行うにはと決意し、待機中の桜花隊に決行を命ず。」としており<ref>宇垣纏『戦藻録 後編』日本出版協同 P.196</ref>先の3月11日に[[銀河 (航空機)|銀河]]24機にてアメリカ海軍前線基地[[ウルシー環礁]]への特攻攻撃を行い、1機しか命中できなかった神風特攻梓隊を例に出し、ここでアメリカ軍機動部隊の後退を見逃せば、成功率が低いウルシーへの再度の攻撃を余儀なくされると判断したためとしている<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.216</ref>
 
野中隊は進撃中に敵艦隊に[[レーダー]]で捕捉されてしまい、正規空母[[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]と軽空母[[ベロー・ウッド (空母)|ベローウッド]]の迎撃戦闘機が野中隊を邀撃した<ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』p241</ref>
ベローウッドの戦闘報告書によれば、スクランブル発進したベロー・ウッドの戦闘機隊VF30の[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]8機が、陸攻隊が高度13,000フィート、直援の戦闘機10数機が14,000フィート、更に高高度援護の戦闘機10数機が16,000フィートの三層で飛行しているのを発見し、18,000フィートまで高度を上げ、陸攻隊を攻撃する為急降下したところ、陸攻隊が気が付き、[[チャフ]]を散布しながら、退避行動を取った。その時に直援の零戦12機が攻撃してきた為、激しい空中戦となった<ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』P.240</ref>
この時点では直援の零戦の機数が多かったが、直援していた306戦闘機隊の野口剛によれば、アメリカ軍の戦闘機隊から後方上空より不意に攻撃を仕掛けられ、次々と直援の零戦が撃墜されていったとの事で、不利な状況で機数の優位性を発揮できなかった<ref>公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成24年5月 第91号 P.36</ref>
VF30のクラーク少佐の小隊4機が機数では無勢ながら直援の零戦を引き付け分断している間に、ベレンド中尉小隊4機が陸攻隊に攻撃をしかけた。
その時に、ホーネットの戦闘爆撃機隊VBF17のF6F8機が到着したが、増援到着を見て、残っていた間接援護機の203空の零戦隊が敵機邀撃の為散開し、陸攻隊の援護が無くなってしまい、ベレンド小隊の攻撃を無防備のまま受けることとなってしまった。野中少佐が作戦中止を命じたのか、陸攻は編隊を組んだまま急降下しつつ180°旋回し全速力で逃げたが、ベレンド小隊とホーネット隊VBF17は次々と陸攻を撃墜していった<ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』P.245</ref>
 
一方、ホーネットの戦闘報告書はベローウッドとは少し異なっており、ホーネットの戦闘機隊VF17と戦闘爆撃機隊VBF17の混成隊[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]8機は16,000〜18,000フィートを飛行する日本軍機に対し、事前に20,000フィート前後の有利な空域で待ち構え、急降下で陸攻を次々と攻撃、陸攻はなすすべなく次々と撃墜されていった。その後、陸攻隊は7,000〜8,000フィートまで高度を下げると、180°旋回して離脱を図ろうとしたが、その際もVF17とVBF17の攻撃が止む事はなかった。これまでにパーリス大尉が協同撃墜も含めて11機、ウィンフィールド中尉が5機、ミッチェル中尉が4機、ジョンソン中尉が3機の陸攻を撃墜したと主張している。護衛戦闘機隊に対しては誘導ミスで到着が遅れたベロー・ウッドの戦闘機隊VF30の[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]8機が向かい、その後に到着したホーネット隊の戦闘機隊VF10の[[F4U (航空機)|F4U コルセア]]8機も増援として加わり、戦力が充実したアメリカ軍戦闘機隊に対し、零戦隊も陸攻を援護できないまま損害を重ねていった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.212〜P.212</ref>
 
両空母で戦闘機隊の到着順番に多少違いはあるが、戦闘の経緯や結果はほぼ同じであり、日本軍側によればアメリカ軍戦闘機は50機以上との報告であったが、実際に空中戦に参加したアメリカ軍戦闘機は24機と、日本軍機の突破に備えて空母上空に待機していたホーネット隊の残りF6F8機の合計32機であった。
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この戦闘で、攻撃711飛行隊:攻撃隊指揮官 [[野中五郎]]少佐ほか134名、戦闘306飛行隊:[[伊澤勇一]]大尉ほか6名、戦闘307飛行隊:[[漆山睦夫]]大尉ほか2名、も未帰還となった。出撃命令がなかったレーダー搭載型一式陸攻の電探員によれば、桜花1機が整備ミスで出撃できず、離陸直後に零戦2機が空中衝突したと言う。第一神雷部隊の陸攻隊は離陸後、攻撃隊内では意図をもって連絡を取っていた<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』p209</ref>が、司令部には一本の電報もなく、司令部は帰還した戦闘機隊から直接報告を聞いて戦況を把握した。
 
第七ニ一海軍航空隊の[[戦闘詳報]]には「神雷攻撃の戦機の得ざりしこと並びに直掩戦闘機の出動率僅少なりしことが、この作戦を不成功ならしめたる原因にして、次回作戦に対し大いに研究の余地あり」「第一回神雷攻撃を敢行し、桜花機の使用の限界を判明とし、その後の作戦に資する所、極めて大なり」と記されていた<ref name="世界113">内藤初穂「太平洋戦争における旧海軍の「戦闘詳報」」『世界の艦船 No.512』1996年7月号 113頁</ref>出撃を強行した宇垣中将は陣中日記[[戦藻録]]に「其の内援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を致せり。即1420頃敵艦隊との推定距離5、60浬に於いて敵グラマン約50機の邀撃を受け空戦、撃墜数機なりしも我も離散し陸攻は桜花を捨て僅々10数分にて全滅の悲運に會せりと。嗚呼」と記している<ref>宇垣纏『戦藻録 後編』日本出版協同 P.197</ref>
 
一方でアメリカ軍は多数のF6Fが被弾したが、撃墜されたのはホーネット隊VBF17のクリスチン中尉を含む2機のみであった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.214</ref>{{#tag:ref|出撃命令がなかったレーダー搭載型一式陸攻の電探員がBBCの短波放送を無断で聞いたところによれば、米側損害は7機だったという<ref>文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)137頁</ref>。|group="注釈"}}。一方的な勝利であった為、マリアナ沖海戦同様にこの空戦も「七面鳥狩り」と呼ばれた。ちなみにアメリカ軍の戦果記録は一式陸攻26機撃墜、零戦12機撃墜、[[雷電 (航空機)|雷電]]2機撃墜、零戦2機撃破、[[三式戦]]1機撃破と過大なものであったが、大規模な空戦では日米互いに過大な戦果報告は茶飯事であった<ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』P.245</ref>桜花の情報は既にアメリカ側は察知しており、アメリカ軍内部の広報誌「Intelligence Bulletin」31号で通知されていた。その為ホーネット隊VBF17の戦闘詳報では「この日遭遇したベティ(一式陸攻のコードネーム)は翼幅15フィートの小さな翼を付けた魚雷の様な爆弾を搭載していた。これは「Intelligence Bulletin」に掲載されていた日本の空飛ぶ爆弾と思われるが、この爆弾はひとつとして発射される事も投棄されることもなかった」とあるが、一方ベローウッドのVF30は「Intelligence Bulletin」を見てなかったのか桜花の存在を知らず「ベティはGizmo(奇妙な物)を搭載していた。(中略)それは尾翼のない[[V1飛行爆弾]]の様だった。我が戦闘機より銃撃され炎上した全てのベティはGizmoを投下したが、それは30°の角度で滑空降下していった。これらは多くの場合に滑空降下中に煙を出したがジェット推進という確証はなかった。本空母と航空隊は日本軍がこのような兵器の使用を試みたという報告を受け取ったことはない。」と報告している。アメリカ軍はこの時点では桜花が有人であるとは認識しておらず、全容が解明されるのは沖縄戦で桜花が無傷で鹵獲されてからであった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.215</ref>
 
湯野川守正(桜花要員)によれば、桜花の悲報を受けても隊員たちの士気は旺盛だった、編成当初は悩みもあったが、張りきって立派にやっていた、最善を尽くして死ぬのは本望で淡々と順番を待ち生き死にを深刻に考えず人に後ろ指をさされないように、一人でも多くの敵をやっつけると考えていたという<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ220-224頁</ref>。
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[[ファイル:USS Stanly 6 Oct 1944.jpg|thumb|350px|桜花が艦首を貫通し甚大な損傷を受け予備艦行きとなった{{仮リンク|スタンリー (駆逐艦)|label=駆逐艦スタンリー|en|USS Stanly (DD-478)}}]]
岡村大佐は第一回の失敗により昼間大編隊による攻撃を断念し、主として薄暮及び黎明時に陸攻少数機が1 - 2機ずつに別れての出撃を行う戦術に転換した。その結果として米軍の迎撃が分散され、沖縄戦では桜花射程内までアメリカ艦隊に接近できた母機も増えて戦果も少なからず挙がるようになった。しかし一方でアメリカ艦隊を捕捉できず、桜花のみ空中投棄して帰投する機も多かった<ref>文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)569 - 577頁</ref>。
一般には二回目の神雷桜花特別攻撃隊以降は戦闘機の護衛は無かったとも言われるが、第306空から第203空へ異動した野口剛によれば、2回目以降も1機の陸攻に対し2〜3機の戦闘機の護衛が付いている<ref>公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成24年5月 第91号 P.37</ref>
 
また[[岡村基春]]大佐は、桜花の胴体内に燃料タンク増設を行い、ロケットで敵戦闘機を振り切る構想を持っていたが、1945年4月前後の実験でロケット装備に効果がないと判断した<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p21</ref>。
 
[[1945年]][[4月1日]]、第二回神雷桜花特別攻撃隊は上述の岡村司令の戦術変更により、深夜2時21分より1機ずつ6機が出撃したが、当日は濃霧が立ち込め視界も効かない中で海上に不時着したり、山に激突する機が続出した。アメリカ軍の夜間戦闘機に追撃されたという報告もあったが、アメリカ側に該当する戦闘報告はなく、第一回に引き続き戦果を全く挙げられない中で、出撃した6機中4機が未帰還となった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.230</ref>
 
[[1945年]][[4月12日]]、第三回神雷桜花特別攻撃隊でようやく桜花は戦果を挙げる事になった。土肥三郎中尉搭乗の桜花が[[駆逐艦]][[マナート・L・エベール (駆逐艦)|マナート・L・エベール]]の艦体中央部に命中したが、命中とほぼ同時に爆発して船体は真っ二つに折れ沈みだした。あまりの衝撃に艦上に設置してあった[[ボフォース 40mm機関砲]]はほとんどが吹き飛び、艦上にいた水兵は海中に投げ出された<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.95</ref>マナート・L・エベールは1944年7月に就役した新造艦であったが、わずか9ヶ月で沈没することとなった。殊勲を挙げた土肥中尉は、出撃までは終始悠々とした態度であったとの事で、母機の仮設ベッドで仮眠をとっていたのをわざわざ起こしたという証言や<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.102</ref>指揮官席で身じろぎもせず腕を組んだまま目を瞑っていたという証言もある<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.269</ref>母機一式陸攻の機長は三浦北太郎少尉であり、鹿屋基地に無事帰投し土肥中尉の戦果を報告した。
 
また、他の桜花が{{仮リンク|スタンリー (駆逐艦)|label=スタンリー|en|USS Stanly (DD-478)}}に命中した。その桜花はスタンリーの右舷真横を低高度の海面スレスレで接近、水面からわずか2mの高さの舷側に命中したが、そのまま駆逐艦の艦首を貫き左舷側から飛び出してしまった。桜花の弾頭は、装甲が厚い主力艦対策として遅動信管を搭載した徹甲弾だった為、駆逐艦の艦首では装甲が薄すぎて艦内で爆発せず、皮肉にもスタンリーは沈没を逃れる事となったが<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.273</ref>桜花が貫いた右舷側はまるでバターナイフで切られたバターの様に切り裂かれており、人的損失は少なかったが艦の損傷は深刻で<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.98</ref>この後復帰は叶わず予備艦行きとなった。他にも1隻の駆逐艦を至近爆発で損傷させている。この日の桜花の戦果の報告を受けた宇垣中将は{{#tag:ref|日本側は戦艦1隻撃沈と判断していた|group="注釈"}}、これまで桜花について懐疑的であったが、「三度目の成功にて花散る此頃、如何やら桜花も寿命を伸ばせり」と陣中日記[[戦藻録]]に書いている<ref>宇垣纏『戦藻録 後編』日本出版協同 P.215</ref>
 
1945年4月14日、第四回神雷桜花特別攻撃隊は7機が出撃、全機が未帰還で戦果も無かったが、澤柳彦士大尉の隊長機より桜花発射との打電があっている。アメリカ軍の記録でも、軽空母ベローウッドの戦闘機隊VF-30(第一回桜花部隊を全滅させた部隊)がベティ(一式陸攻)を撃墜したが、撃墜される前に桜花を投下したという報告がなされている<ref>吉本貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』P.124</ref>またこの日の戦闘の状況を撮影したカラーフィルムには、[[第38任務部隊|第58任務部隊]]所属の軽空母[[サン・ジャシント (空母)|サン・ジャシント]]の艦首至近海面に桜花が突入し爆発する姿が映っており(サン・ジャシントに損傷なし)、確認できる範囲内では、アメリカ軍の駆逐艦などの[[レーダーピケット艦]]で張り巡らされた早期警戒網を突破し、空母機動部隊を攻撃した唯一の桜花となった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.331</ref>
 
第五回・第六回はアメリカ軍の記録上では戦果がなかったとされるが、出撃した母機搭乗員よりは戦果の報告がなされている。(詳細は[[#戦果]]を参照)
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1945年5月4日、第七回神雷桜花特別攻撃隊で{{仮リンク|シェイ (機雷敷設駆逐艦)|label=機雷敷設駆逐艦シェイ|en|USS Shea (DM-30)}}に1機の桜花が命中している。桜花は司令官室、[[戦闘指揮所]]、[[ソナー]]ルームなどの艦内中枢を目茶目茶に壊して118名の死傷者を出させたのち、スタンリーの時と同じようにシェイを貫通し海上で爆発した。そのためシェイは撃沈は免れたが、翌1946年まで修理が終わらないほどの深刻な損害を被り、桜花の威力をまざまざと見せつける事となった<ref>[http://www.destroyers.org/histories/h-dm-30.htm A Tin Can Sailors Destroyer History USS SHEA(DM-30)] 2017年8月12日閲覧</ref><ref>吉本貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』P.141</ref>。他2隻の駆逐艦も至近弾で損傷し3名の負傷者を出した。
 
桜花が最後に戦果を挙げたのが1945年5月11日に第八回神雷桜花特別攻撃隊で、{{仮リンク|ヒューW.ハドレイ (護衛駆逐艦)|label=護衛駆逐艦ヒューW.ハドレイ|en|USS Hugh W. Hadley (DD-774)}}に1機の桜花が命中し、後部機械室と前部ボイラー室の中間で爆発した。艦はたちまち全ての機能が停止、更に大量に浸水したためバロン・J・マレイニ艦長は「総員退艦」を命じたが、艦に残った50名の士官と水兵の神業とも言える[[ダメージコントロール]]で沈没は逃れた。しかし艦の損傷は致命的で95名もの死傷者を出し、修理はされずそのままスクラップとなった<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.164</ref>またこの日は宇垣中将の命により、他特攻部隊援護の為に桜花2機をアメリカ軍飛行場攻撃の為出撃させている。滑走路に大穴を開けて離着陸をできなくする目的であったが、アメリカ軍戦闘機の妨害で突入を断念している<ref>宇垣纏『戦藻録 後編』日本出版協同 P.237</ref>1945年5月25日の第九回神雷桜花部隊は、第一回に次ぐ機数の11機の陸攻と桜花が投入され、連合艦隊司令長官[[豊田副武]]より直々の出撃見送りを受けている<ref>日本ニュース 第252号 1945年6月9日</ref>前日に[[義烈空挺隊]]が沖縄の飛行場に突入しており、期待も大きかったが、天候不良で内8機が引き返し、残り3機も桜花射出の打電のないまま未帰還となった<ref>吉本貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』P.145</ref>
 
この後の1945年5月28日に大本営はようやく桜花の機密扱いを解除し、神雷部隊の存在を公表した。「その壮烈なる戦意と一発轟沈の恐るべき威力とを以て敵陣営を震撼せしめたる神雷特別攻撃隊員の殊勲を認め、連合艦隊司令長官は之を夫々全軍に布告せり」との海軍省公表を中心に、翌29日の紙面で新聞各紙は一面で大々的に報じたが、[[朝日新聞]]の紙面には「ロケット彈に乗って敵艦船群へ體當り(体当たり)」とか「1發轟沈神雷特攻隊」とか「翼下から飛び出す皇軍獨特の新兵器」と勇ましい見出しが並び、桜花の概要と、これまでの神雷桜花作戦戦死者321名の布告と、第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃時の三橋大尉らの写真も大きく掲載されたが、戦果については曖昧な記述になっている。また外電の[[AP通信|AP電]]やアメリカの[[タイム (雑誌)|タイム誌]]が桜花について日本に先んじて報道したことも伝えていた<ref>朝日新聞 1945年5月29日 1面記事</ref>
 
桜花の記事は数日間に渡り紙面を飾り、6月1日の[[朝日新聞]]の「霹靂の如き一瞬敵艦ただ死のみ」という見出しの記事には、当時海軍の報道班員だった作家[[川端康成]]の「神雷(桜花のこと)こそは実に恐るべき武器だ(中略)これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ」「親飛行機の胴体に抱かれて行く、いわば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の形をしていて色彩も優美で全く可愛い(中略)神雷による勝機は今眼前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等な恥づかしくない心をもって生産戦に戦い抜かう、爆撃に断じて屈するな」という談話を載せている<ref>朝日新聞 1945年6月1日 2面記事</ref>{{#tag:ref|川端康成は『[[新潮]]』1955年8月号の終戦10周年の特集号に、[[三島由紀夫]]・[[志賀直哉]]ら作家計25名で「昭和二十年の自画像」として戦時を振り返り寄稿した「敗戦のころ」という特集記事で「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と書いているが、神雷桜花部隊についての記事に談話は寄せていたことになる。|group="注釈"}}
 
また[[日本放送協会|NHK]]も6月13日より数日間に渡って、神雷桜花部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送を全国に流したが、その際に報道班員だった作家[[山岡荘八]]が司会や解説をしている<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.398〜P.399</ref>
 
その後、軍や国民の期待とは裏腹に桜花特攻は1945年6月22日第十回神雷桜花特別攻撃隊6機の全滅と沖縄戦の終結により一旦出撃が中止され、本土決戦準備として、陸攻搭乗員400名と母機の一式陸攻は1945年7月に石川県の[[小松飛行場|小松基地]]に移動、岡村司令ら司令部要員は[[松山海軍航空隊|松山基地]]に移動、桜花搭乗員75名は[[宮崎県]][[日向市]]の冨高基地に移動したが、出撃することもなくそのまま終戦を迎えている<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.431</ref>。
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=== 戦後 ===
神雷桜花部隊で[[厚木海軍飛行場]]の[[第三〇二海軍航空隊|302空]]に次ぐ抗戦部隊となる動きが一部にあったが、玉音放送後に沖縄に特攻出撃して戦死した宇垣中将の後任となった5航艦司令長官[[草鹿龍之介]]中将が、1945年8月21日に神雷部隊陸攻隊及び桜花隊に解散を命じた。予備士官に3,300円、下士官に2,800円の退職金が支給され、各々が陸攻に分乗して故郷の近くの飛行場に帰る様に指示された<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.483</ref>終戦により軍の組織は崩壊したに等しく、故郷への帰還飛行も自由に行われ、観光飛行の様に富士山を周回したり、故郷の上空を低空で旋回する機もあったという。各陸攻は最後の飛行場で乗り捨てられた<ref>特攻最後の証言制作委員会『特攻 最後の証言』文春文庫 P.43</ref>
 
[[8月18日]]、発案者の[[大田正一]]中尉は、[[茨城県]]の神ノ池基地において[[零式練習用戦闘機|零式練習戦闘機]]に乗り込んで離陸、そのまま行方不明となった。基地の机に「東方洋上に去る」と遺書を残した<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫500-501頁</ref>。大田は、戦時に桜花搭乗員となるべく異例の取り計らいで偵察員から操縦員への転換訓練を受けたが、「適性なし」と判断されていた。また、桜花の使用が中止された7月頃、大田は方々に再開するように説いて回ったが、終戦まで再開されることはなかった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』479頁</ref>。大田は新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて以来、不遜な態度をとるようになっていた上、桜花搭乗員の人命を軽視する発言も行っていたため、報復を恐れていたという説もある。また、[[戦犯]]の認識を勘違いしていたという説もある<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社479頁</ref>。[[殉職]]として大尉に昇進しており、1956年11月20日の呉地方役員部作成内地死没者名簿では「航空殉職」「戸籍抹消済」となっている<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫500-501頁</ref>。しかし、大田は漁船に救助されて改名して生存していた<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.488</ref>。その後も大田は元同僚の前に現れており、稲田正二は戦後間もなく何度か会って身の上話を聞いたという。[[金華山]]沖の洋上で北海道の漁船に拾われ、[[北海道知事]]に戸籍を新しく作ってもらったと話している<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋356頁</ref>。その後、生涯無戸籍のまま1994年に死去した。
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!width="100"| 合計
|-| border="1" cellpadding="2"
| 桜花母機出撃機数 || 18機{{#tag:ref|この内桜花搭載は15機|group="注釈"}} || 6機 || 9機|| 7機 || 6機|| 4機|| 7機|| 4機|| 11機|| 6機|| 78機
|-
| 同未帰還数{{#tag:ref|不時着・不時着水機は含めず|group="注釈"}} || 18機 || 4機 || 5機|| 7機 || 4機|| 1機|| 5機|| 3機|| 3機|| 2機|| 52機
|}
 
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== 評価 ==
[[ファイル:MXY7 Ohka Cherry Blossom Baka Ohka-9s.jpg|thumb|230px|沖縄でアメリカ軍に鹵獲された桜花11型]]
[[沖縄戦]]でアメリカ軍は上陸初日に沖縄の北・中飛行場を占領したが、北飛行場の北東側の斜面に掘られた掩体壕の中から桜花が10機鹵獲された。既に概要の情報を掴んでいたアメリカ軍であったが、鹵獲した桜花を調査し、桜花(この時点ではGizmoと呼ばれていた)が人間が操縦するロケット爆弾であるという事が間もなく判明すると、自殺を禁じるキリスト教的な価値観より、自殺をするような愚か者が乗る兵器という意味合いで『BAKA』というコードネームが付けられた<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.233</ref>
 
その運用思想に嫌悪感を覚えたアメリカ軍であったが、兵器としての有効性に対しては強い懸念を示し、早速鹵獲した桜花を本国に送り、アメリカ技術航空情報センターで徹底した調査が行われている。この報告書を戦後に見た桜花設計技術者の[[三木忠直]]に「桜花設計時に作った設計書より遥かに詳しい」と言わしめたほどに詳細な調査であった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.233</ref>
 
その後に桜花が駆逐艦[[マナート・L・エベール (駆逐艦)|マナート・L・エベール]]を撃沈するとその懸念が現実化する事となり、アメリカ軍はマナート・L・エベールのオールトン・E・パーカー艦長と副長と砲術長に25Pにもなる長文の詳細な戦闘記録を作らせ、TOP-SECRET扱いとし徹底的に分析している。その報告書には「それは今まで目にしたどんな飛行機よりも速かった。プロペラやエンジンは見かけられなかったので、この機体はジェットかロケットを推力にしているものと思われた。」と記述してあった<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.97</ref>マナート・L・エベールと同日に桜花が命中しながら、あまりの威力に艦体を突き抜けた為、撃沈を免れた{{仮リンク|スタンリー (駆逐艦) |en|USS Stanly (DD-478)}}の砲術長は「このミサイルが艦艇装備の自動火器の射程距離範囲内まで接近したなら、何物もその突進を停止させたり、その方向を変換させるのは無理である」と述べている<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.102</ref>
 
その設計思想と費用対効果の低さにより今日の日本では極めて評価が低い桜花であるが、鹵獲した桜花の調査結果や、また被害艦の戦闘報告を詳細に検証した当時のアメリカ海軍は、桜花をもっとも危険な兵器で、アメリカ軍の砲手やパイロットらにとってこれまでに遭遇したもっとも手におえない攻撃目標であると考えた<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.102</ref>[[ピューリッツァー賞 一般ノンフィクション部門]]を受賞したアメリカの戦史研究家[[ジョン・トーランド]]は、当時のアメリカ軍艦隊全体の状況として「桜花を『BAKA』と蔑んでみても、アメリカ軍艦隊全体に広まった恐怖は決して和らぐことはなかった。」と述懐している<ref>[[ジョン・ト―ランド]]『大日本帝国の興亡』第4巻神風吹かず 早川書房 電子版P.4438</ref>。
 
アメリカの歴史家の第一人者で海軍軍人でもあった[[サミュエル・モリソン]]は著書で桜花について「小型なことと、とてつもないスピードのため、BAKAはわが軍の艦船に対する最悪の脅威となった。それは、ロンドンを襲ったドイツの誘導ミサイルにほぼ匹敵する脅威となった。」と述べている<ref>サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳 光人社 431頁</ref>また、太平洋艦隊司令[[チェスター・ニミッツ]]元帥も著書で「桜花は翼を持つロケット推進の爆弾で、爆撃機の機体から離れると、その後はパイロットにより目標まで誘導された。」と桜花の概要を記述しており、当時のアメリカ海軍での桜花の存在感をうかがい知る事ができる<ref>[[チェスター・ニミッツ]] E・B・ポッター 『ニミッツの太平洋戦史』恒文社 P.442</ref>
 
アメリカ軍は詳細な[[特別攻撃隊]]対策を制定し全軍に徹底したが、その中でも桜花は大きく取り上げられ、下記の事が徹底されている<ref>[http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html "Anti-Suicide Action Summary"UNITED STATES FLEET HEADQUARTERS OF THE COMMANDER IN CHIEF NAVY DEPARTMENT WASHINGTON 25, D. C. 31 August 1945]</ref>
 
* 人間という最高の制御、誘導装置を備えた、潜在的に最も脅威となる対艦攻撃兵器である。
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* レーダー反射は戦闘機の約3割の大きさである。
 
[[アメリカ合衆国海軍省]]では、従来の兵器では一度射出された桜花に有効な迎撃ができないと考え、桜花に対抗する為にターボ・ジェット機の開発を急がせた。アメリカ海軍初のジェット艦載戦闘機[[FH (航空機)|FH-1 ファントム]]が完成したが、終戦までに実戦配備は間に合わなかった<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.102</ref>
[[ファイル:Самолет-снаряд Ока.jpg|thumb|280px|アメリカ軍により描かれた桜花の構造図]]
 
296行目:
[[ファイル:MXY7 Ohka Cherry Blossom Baka Ohka-12s.jpg|thumb|220px|桜花11型の操縦席]]
;11型
実戦に投入された機体。55機が特攻に出撃した。終戦までに755機生産されている<ref>戦史叢書88海軍軍戦備 (2) 開戦以後 p5 - 6</ref>。桜花11型は独力で離陸できなかったため、[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]24型を改造した一式陸攻24型丁と呼ばれる改造機を造り、アメリカ軍艦隊の近くまで、その下部に搭載して運び、そこから発進する方法をとった。爆弾搭載量800kgで設計された一式陸攻にとって、全備重量2.3トン弱の桜花は非常に重く、桜花を搭載した一式陸攻は、限界ギリギリの離陸可能重量となる。桜花のエンジンは4号1式噴進機(20型火薬ロケット)と呼ばれたが、ロケット燃料はゴム状の固形になっており、1本当り7秒〜8秒の加速が可能で、そのロケットが3基装備されていたので30秒弱の加速ができた。基本的にはグライダーなので滑空で敵に接近するが、敵に突入する時、滑空距離を延ばす時、敵戦闘機や迎撃から退避する場合などにロケットエンジンを使用し、その使用は搭乗員の判断に任された<ref>特攻最後の証言制作委員会『特攻 最後の証言』文春文庫 P.31</ref>航続距離の短さが大きな足かせとなっていた為、後の派生各型は航続距離の延長が図られる事となった。
 
;22型
作戦の成功率を高めるため母機を軽快な[[銀河 (航空機)|銀河]]に変更したもの。銀河の車輪幅は一式陸攻より狭い為に、収まるように主翼を削るなどの形状の変更の他に、発進後の飛行距離の増大を目指して、11型の4号1式噴進機を「[[ツ11]]」に変更し(レシプロエンジンでコンプレッサーを駆動し、燃焼室内に燃料を噴射するという[[モータージェット]]([[カプロニ・カンピニ N.1|カンピーニロケット]])である)自重の軽減のため、爆弾の搭載量を減らして (1200kg→600kg) いる。また、主翼内に敵艦のレーダーを逆探知して位置を計測する2式空7号無線電話機2型も装備された<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.422〜P.426</ref>22型のダミーを搭載し飛行実験をした銀河は、37km/hの減速に留まり飛行にも問題ないと判断された為に、22型が完成する前に銀河10機に母機としての改装が前倒しで行われた。しかし肝心の22型の本体はエンジン[[ツ11]]の生産が捗らず、1945年6月にどうにか試験飛行にこぎ付けたが、2回連続で事故を起こし、2回目の事故でテストパイロットの長野一敏少尉が殉職している。事故の原因は、エンジン換装による速度減を補う為に設置されていた火薬ロケット4号1式噴進機1基が発火した為であり、事故防止の為に取り外された。火薬ロケットが取り外された事により速度が減少する事となったが、更なる問題として22型の[[ツ11]]エンジンは上空の薄い大気では始動させる事が出来ない事も判明し、母機の離陸時には搭載するエンジンを始動させておかねばならなかった。また銀河の形状にあわせた主翼面積減により操縦性も悪化する事となった<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』P.196</ref>これらの問題を抱えていた上に、[[ツ11]]エンジンの生産も中々軌道に乗らず、22型の生産数はわずか50機に終わり、実戦に投入されることはなかった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.470</ref>
[[ファイル:Yokosuka Ohka Model 22.svg|thumb|250px|桜花22型の三面図。[[ツ11]][[モータージェット]]エンジンを搭載している]]
;21型
22型のエンジンを11型と同じ4号1式噴進機(20型火薬ロケット)に換装したもの。[[ツ11]]が実用化できなかった場合に備えて計画されていたが、22型は11型と比較し翼面荷重が高く、もし完成していたら11型より航続距離が短く更に運用困難な機体になっていた可能性が高かった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.470</ref>
 
;33型
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;43甲型
33型を潜水艦のカタパルトから射出可能とした型で、潜水艦の格納筒に格納する為に主翼は脱着式となる計画であったが、大戦末期には巡潜のカタパルトはほとんど撤去されており、完成しても運用は困難と考えられ計画だけで終わった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.421</ref>[[伊四百型潜水艦]]に搭載し[[晴嵐]]と敵空母基地を奇襲攻撃しようという計画もあったと言われている<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』P.252</ref>
 
;43乙型
[[ネ20 (エンジン)|ネ20]][[ジェットエンジン]]を搭載し、300km近い航続距離を得たタイプ。陸上からの[[カタパルト]]発進を行う予定で開発された。また特徴としては、自力飛行で基地移動が可能となるように設計されており、より「飛行機」に近い形となった。その為、無線と落下傘も装備が予定されていた。トンネル式格納庫に収める為に主翼は折り畳み式で、さらに突入時に加速がつくよう翼端が火薬により切り離せる構造になっていたが、これは[[可変翼]]実用化のはしりであったという指摘もある<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』P.252</ref>実物木型模型は1945年4月に修了、[[海軍航空技術廠]]と[[愛知航空機]]で量産準備を進めていたところで終戦を迎えている。この型ではエンジンと燃料タンクの設置のため爆弾重量は800kgに減らされていた<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.422</ref>同じ[[ネ20 (エンジン)|ネ20]][[ジェットエンジン]]を搭載する[[橘花 (航空機)|橘花]]は2基のエンジンが必要であったが、桜花は1基で良かった為、決戦兵器としては効率的と考えられ優先的に量産される計画だった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.434</ref>
 
量産機の製造開始前に練習機(複座)K2も2機製造されていた。また地上発射用の基地の建設も進められていた。(下表参照)桜花43乙型は、東京から発射すれば滑空も含めて名古屋までは飛行できる航続距離とする計画であり、発射基地は海岸ではなく内陸に作られている。それで各基地のカタパルト1基につき桜花を5〜10機準備する予定であった。桜花43乙型発射基地の内で、先に完成したのは[[比叡山]](既に完成していた為下表に表記なし)であり、次いで[[武山]]の基地が完成した。武山ではカタパルトからの桜花の射出実験も行われ成功している。その後、43乙型の実戦部隊である第725航空隊が編成されたが、出撃することなく終戦を迎えた<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』P.259</ref>
 
このとき残された桜花発射用のレールが、[[三芳村 (千葉県)|三芳村]]の知恩院という寺の片隅に保存されている。三芳村の平和会が、年に約3回程度草刈りをして手入れしている。[[比叡山延暦寺]]近隣のカタパルト建設と桜花の輸送に[[比叡山鉄道比叡山鉄道線|比叡山鉄道]]のケーブルカーが接収された。カタパルトは終戦直後に連合国軍の手で爆破された、との記録が有る<ref>大津市市制100周年企画展「大津の鉄道百科展」の展示より</ref>。カタパルトの金属は戦後復興期に持ち逃げされ、跡地は[[比叡山ドライブウェイ]]の一部となっている<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.471</ref>
 
2015年に大分県宇佐市の地域おこし団体「豊の国宇佐市塾」によって、比叡山の桜花訓練基地の様子をアメリカ軍が終戦直後の1945年9月に撮影した映像がアメリカ国立公文書館で発見された。その映像には山頂の基地まで備え付けのケーブルカーで上る様子や、建築途中の基地の様子、桜花発射の為のカタパルトなどが写っていた<ref>[http://www.sankei.com/west/news/150819/wst1508190024-n1.html 「特攻兵器「桜花」の秘密訓練基地の映像を発見…専門家は「衝撃映像だ」 京都、滋賀をまたぐ比叡山中」2015年8月19日 産経新聞]</ref>
[[ファイル:Yokosuka MXY7 Ohka at Konoike airfield 1945.jpg|thumb|250px|終戦後、アメリカ軍に引き渡すために神ノ池飛行場に並べられている桜花]]
'''桜花43乙型発射基地(1945年7月14日 官房空機密1149号 桜花43号基地整備の件訓令より)'''<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.472</ref>
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: 主人公、迫水真次郎は桜花の[[パイロット (航空)|パイロット]]だった。その70年後を描いたアニメ版にも迫水は敵の王として登場し、迫水が特攻に用いた桜花の複製や、桜花から名をとったロボット([[オーラバトラー]])「オウカオー」なども登場する。
 
== ==
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== 出典 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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