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→‎人物・生涯: 徳川斉昭の「正室」であった吉子女王は、池内が仕えていた尊超入道親王の「妹」。
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[[京都]]の商人の家に生まれた。兄弟は7人。8歳のとき[[貫名海屋]]に入門し[[古学]]・[[陽明学]]・[[朱子学]]を合わせた[[折衷学]]を学び、また[[龍野将監]]の下で医術を修める。学問に才覚を発揮し10歳のとき、山本沈三郎・百々一郎とともに三才子と称揚された。大学11歳のとき父が病没。父は「医者となって家を復興せよ」と遺言し、ますます勉学に励んだ。しかし、師海屋に「医は業拙なり。願わくば儒を業とせよ」と諭され母に相談すると許されたので龍野門をことわり、専ら海屋について学ぶことになった。
 
[[天保]]2年(1831年)、[[尊超入道親王]]に評判が聞こえ、中奥席として仕え、大学の名を賜った。翌年には近侍となり、[[公家]]子弟の教育係を務めた。天保4年(1833年)、尊超入道親王に随って江戸に向かう。3年後に[[水戸藩|水戸]]の[[徳川斉昭]]を訪ねた。親王のが斉昭の[[室]]という関係であった。斉昭が親王に外国船の脅威を憂うと、親王は大学の見識が高いことを奨めた。大学が斉昭に[[海防論|海防]]の重要性を説くと気に入られ如射書院の額を下賜された。[[弘化]]4年(1847年)、再び水戸を訪ねると斉昭は[[攘夷]]の志を全うすることを告げ、[[三条実万]]に[[天皇]]に奏ずるように要請した。この頃、[[久邇宮朝彦親王]]の侍読となっている。
 
[[嘉永]]6年(1853年)、[[ペリー]]が[[浦賀]]に来航し親書をもって[[開国]]を要請すると、大学は『攘夷論』を著し帝都防衛を論じた。この頃水戸藩士[[鵜飼吉左衛門]]は息子[[鵜飼幸吉|幸吉]]を大学に入門させている。以降、この幸吉は斉昭と大学の連絡係となる。大学はその後も[[攘夷派]]・[[一橋派]]として活動。[[梁川星巌]]・[[梅田雲浜]]・[[頼三樹三郎]]などとも交流する。