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=== 六ヶ度合戦 ===
寿永2年([[1183年]])、源氏同士の抗争の間に平家は[[摂津国]][[福原京|福原]]まで進出したが、[[西国]]各地で平家に叛く動きが起きていた。平家の足もとの[[四国]]でも[[阿波国]]、[[讃岐国]]の在庁官人が源氏に通じ、[[備前国]]下津井にいた教盛、通盛、教経父子の陣へ兵船10余艘で攻めかかった。教経は「契りをたがえるとは許せん、一人残らず討ち取れ」と小舟10艘を率いて出撃してさんざんに打ち破った。
 
四国の者たちは[[淡路島]]へ逃れ、この地の源氏である[[源義嗣]]([[源頼仲]]の子)、[[源義久|義久]]([[源頼賢]]の子)を大将に城を構えて対抗しようとしたが、平家は教経らがこれを攻め潰して、義嗣を討ち取り、義久を生け捕り、叛いた130余人を斬首した<ref>[[菱沼一憲]]([[国立歴史民俗博物館]]科研協力員)は著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― 」(角川選書、2005年)による。</ref>。
 
[[伊予国]]の[[河野通信]]が源氏に寝返ったとの噂があり、平家は通盛・教経兄弟にこれを討たせようとしたが、通信は[[安芸国]]の[[沼田次郎]]と合流して沼田城に立て篭もった。教経は屋島を発して沼田城をさんざんに攻め立てて打ち破り、沼田次郎は降参した。河野通信は追い立てられ、身一つで伊予へ逃れた。
 
[[淡路国]]の住人[[安摩忠景]]が叛き大船2艘に兵糧と武具を積んで京へ向かったので、教経は小舟10艘で追撃して撃破し、忠景は[[和泉国]]へ逃げ延びた。
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河野通信が[[豊後国]]住人[[臼杵惟隆]]・[[緒方惟栄|緒方惟義]]兄弟と合流して2000余人で備前国へ渡り今木城に籠城した。教経は2000余騎でこれを包囲し、更に福原から援兵数千騎を得て攻め落とし、臼杵、緒方、河野は逃亡した。
 
これら一連の戦いを合わせて「[[六ヶ度合戦]]という。このように、教経は退勢の平家を支えるべく転戦した。
 
=== 一ノ谷の戦い・討死? ===