「ブレスト=リトフスク条約」の版間の差分
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{{脚注の不足|date=2012年2月}}{{Infobox Treaty|long_name=|name=ブレスト=リトフスク条約|image=Traktat brzeski 1918.jpg|image_width=300px|caption=ブレスト=リトフスク条約原本の最初の2ページ<br />左から順にドイツ語、ハンガリー語、ブルガリア語、ロシア語で書かれている|type=|date_drafted=|date_signed=1918年3月3日|location_signed=ブレスト=リトフスク, フロドナ州<br />
#[[1918年]][[2月9日]]
#[[1918年]][[3月3日]]に結ばれた条約 - 中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)と[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]]および[[ウクライナ人民共和国_(ソビエト派)|ウクライナ人民共和国]]のボリシェヴィキ政府([[ソビエト連邦|ソ連]]の前身)とが講和を結んだ。この条約により、ロシアが第一次世界大戦から離脱することとなった。
通常、ブレスト=リトフスク条約といって想定されるのは後者である。<!--これは政治的な事情によるものである(後述)。-->
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=== 和平交渉 ===
[[ファイル:Trotzki Deutsche Brest-Litowsk1917.jpg|thumb|right|250px|ドイツ側代表を出迎えるロシア側代表トロツキー
旧ロシア帝国領内における混乱から、ドイツなど強国がウクライナ問題へ干渉することは不可避であると予想された。ロシアの生命線であったウクライナの喪失を阻止するため、ボリシェヴィキは早急なる講和条約の締結に迫られた。ロシアと中央同盟国との和平交渉は12月22日、ボリシェヴィキ政府と同盟国側との休戦の1週間後にブレスト=リトフスクにおいて始められた。[[レフ・トロツキー]]外相を代表とする交渉団は、まず初めにベラルーシと[[ポーランド]]の国境の画定を議題とした。中央同盟国側の代表は、ドイツの[[マックス・ホフマン]]であった。これに、[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]やトルコの[[リヒャルト・フォン・キュールマン]]
12月25日には[[ハルキウ]]にてボリシェヴィキ派のウクライナ人民共和国の成立が宣言され、ウクライナにおけるボリシェヴィキの新たな拠点となった。同日、ロシアの赤軍はウクライナ領内への侵攻を開始、1月初旬までの間に[[東ウクライナ]]の大半の地域を占領した。ウクライナ側の守りは、ボリシェヴィキのプロパガンダ工作とスパイによる武装蜂起などによって脆くも崩れ去った。
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==参考文献==
* {{Cite web|url=http://ww1.m78.com/honbun/brest-litovsk%20treaty.html|title=ブレストリトウスク条約|work=[http://ww1-danro.com/ 第一次大戦]|author=[[別宮暖朗]]|accessdate=2012-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120926033858/http://ww1.m78.com/honbun/brest-litovsk%20treaty.html|archivedate=2012年9月26日|deadlinkdate=2013年10月|deadurldate=2017年9月}}
* ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー『自由と統一への長い道』 1巻 後藤俊明、奥田隆男、中谷毅、野田昌吾訳
==脚注==
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