「汎ゲルマン主義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Libertas (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Libertas (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''パン=ゲルマン主義'''(独: '''Pangermanismus'''、英: '''Pan-Germanism''')とは、[[ゲルマン人|ゲルマン民族]]の勢力拡大を主張する[[政治思想]]である。[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]はこのスローガンを掲げバルカン地方へ進出し、パン=スラヴ主義([[汎スラヴ主義]])と対立し、[[南下政策]]を続ける[[ロシア帝国|ロシア]]との軋轢を招いた。後に[[バルカン半島]]を[[ヨーロッパの火薬庫]]と呼ばれるまでに[[民族]]の対立を激しくした要因の1つである。この結果、列強間による[[帝国主義]]化、軍備拡大は避けられず、[[第一次世界大戦]]を引き起こすこととなった。これは、[[ドイツ統一]]を牽引し、周辺諸国との[[勢力均衡]]を望んでいた[[ドイツ国首相|帝国宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の理念からはかけ離れたものとなった。
 
パン=ゲルマン主義は、19世紀中葉に行われた「[[ドイツ統一]]」の理念の拡大であった。ドイツ人の[[民族主義]]の昂揚によって、「ドイツ語響く所がドイツである」とまで言われた。このゲルマン主義に協調したのは、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]][[皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]と[[スウェーデン=ノルウェー|スウェーデン]]国王[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]であった。
 
オスカル2世は、当時[[ノルウェー]]を[[同君連合]]とし、[[デンマーク]]を含めた「プロイセン・スカンディナヴィア・バルト中立連合」なるものを構想していたが、デンマークや自国政府の反対により頓挫し、ゲルマン主義から離れてしまった。要するにオスカル2世は、北方[[ノルマン人]]も[[ドイツ人]]と同じ[[民族]]であると考えていたが、すでに[[中立主義]]が根付きつつあった[[北欧諸国]]には受入れられなかったのである。一方オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、オスカル2世の様な連合構想こそもたなかったが、ドイツ帝国との連携を重視し、[[バルカン半島]]への関与を深める為にドイツの武力を利用したと言える。さらに二重帝国内においては、[[スラヴ人|スラヴ系]]住民を抱え、彼らの汎スラヴ主義への傾倒に苦慮していたという事情もあった。結局、フランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク帝国の死守とバルカン問題の狭間で身動きが取れず、ドイツ帝国と共に第一次世界大戦に引きずり込まれ、ハプスブルク帝国の終焉と言う結末を迎えてしまうのである。
 
== 関連項目 ==