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'''旭富士 正也'''(あさひふじ せいや、[[1960年]](昭和35年)[[7月6日]] - )は、[[青森県]][[西津軽郡]][[木造町]](現在の[[つがる市]])出身で[[大島部屋]]所属の元[[大相撲力士]]、第63代[[横綱]]。本名は'''杉野森 正也'''(すぎのもり せいや)。現役時代の体格は[[身長]]189cm、[[体重]]143kg。得意技は右四つ、寄り、掬い投げ。現在は、[[年寄]]・9代[[伊勢ヶ濱]]親方。ネット上ではよく組長と呼ばれている。
[[ABO式血液型|血液型]]はB型、趣味は音楽鑑賞、映画鑑賞。[[近畿大学]]・[[大学通信教育|通信教育課程]]卒業
: 自身が育てた横綱の日馬富士はこの事実から学業と相撲の両立が可能と考え、2014年4月より、法政大学大学院政策創造研究科へ入学した。本来2年で修了する課程を修めるが地方場所開催期前後は通学不可能であるため4年かけて課程を消化するという。</ref>。
== 来歴 ==
=== 大島部屋入門まで ===
木造町立木造[[中学校]]、私立[[五所川原商業高等学校]]在学中は[[相撲]]部に所属。高校時代の[[長野県]]で行われた[[第33回国民体育大会]]では、少年の部の団体優勝に貢献した。高校卒業後も相撲の名門である近畿大学([[大阪府]][[東大阪市]])<ref>同じ大相撲界で近畿大学の出身力士は、[[朝潮太郎 (4代)|4代朝潮]](元大関・現[[高砂 (相撲)|高砂]]親方)や、現愛弟子の[[宝富士大輔|宝富士]]・[[誉富士歓之|誉富士]]などが居る。</ref> に入学したが、近大相撲部の合宿所での団体生活に馴染めない等の事情により、2年時に相撲部を退部、近畿大学も一旦退学していた
暫くは故郷の青森に戻り、[[漁業]]に従事していた<ref name="ref156">[http://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/serial/pdf/yr006_sm0007.pdf インタビューの内容が収録されたPDFファイル] 光文社</ref> が、その一方で相撲の稽古も一人で続けていた。その光景を当時の[[大島 (相撲)|大島]]親方(元[[大関]]・[[旭國斗雄|旭國]])の目に止まって[[スカウト (勧誘)|スカウト]]を受ける。一度は断ったものの、その後大島部屋への入門を応諾したきっかけは、旭富士が初土俵の時点で大島部屋がまだ創設丸1年と歴史の浅い小部屋で、[[関取]]が一人も所属していなかったという理由もあると言われている。後年本人が光文社のインタビューで、漁が休みの日におじの薦めで東京見学へ行って相撲部屋を見学したことが角界入りのきっかけと明かしており「大島親方に『ハンコを出せ』と言われ、出したら勝手に使われて入門が済し崩し的に決定した。騙して部屋に置けば何とかなるとでもおじは思っていたのだろう」と入門に至るまでの経緯も詳しく語った。同じインタビューでは、入門時点で自身が20歳と部屋の所属力士最年長であったためやりやすかったとも話していた<ref name="ref156" />。でシンガーソングライターで相撲甚句も歌う[[北脇貴士]]曰く入門当初は[[役所広司]]のような風貌であったという<ref>[http://kitawaki-takashi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-9072.html 大島部屋一番弟子「旭風」大相撲甚句に登場!] 北脇貴士の大相撲甚句 2014年6月18日</ref>。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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