「バージニア州の歴史」の版間の差分

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* ウォロスキオーク・シャイア(現在のアイル・オブ・ワイト郡)
 
2007年時点では、これら当初の8つのシャイアの内5つは基本的に同じ政治形態(郡)で残っていると考えられるが、400年近い間にその境界は変わってきている。また初期のシティという言葉を含むネーミングにより多少紛らわしい名前になっており、例えば「ジェームズ・シティ郡」や「チャールズ・シテ郡」のような論議を呼びそうな名前になった(現在廃止された「エリザベス・シティ郡」の住民は1952年の住民投票でハンプトン独立市に集約される道を選び、またやはり投票で良く知られ煩わしくない名前を採用した)。
 
ウィリアム・バークリー総督の統治時期にトランス・アレゲニー地域を探査する最初の意義有る試みが行われた。バージニアのさらに奥深く探査しようという動きは、1644年にオペチャンカナウ酋長が再び率いた虐殺事件で500人の開拓者が殺されたときに中断された。バークリー総督は植民地にタバコ以外の収入をもたらす資源を開発した功績が認められている。例えば、その大規模なグリーン・スプリング・プランテーションでの[[カイコ|蚕]]のための[[クワ|マルベリーの木]]の栽培やその他の穀物であり、その場所は現在、ジェームズタウンとウィリアムズバーグ近くに[[アメリカの国立公園制度|国立公園局]]が維持管理する大規模未発掘考古学的地域となっている。