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{{テニス選手
| 選手名(日本語) = アーサー・アッシュ
| 写真 = Arthur Ashe (cropped).jpg
| 写真サイズ = 230px
| 写真のコメント = アーサー・アッシュ
| 選手名(英語) = Arthur Ashe
| フルネーム(英語名) = Arthur Robert Ashe, Jr.
| 愛称 =
| 国籍 = {{USA}}
| 出身地 = 同・リッチモンド
| 居住地 =
| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1943|7|10|no}}
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| 死没地 =
| 身長 = 188cm
| 体重 = 73kg
| 利き手 = 右
| バックハンド = 片手打ち
|殿堂入り=1985年
| デビュー年 = 1970年
| 引退年 = 1980年
| ツアー通算 = 47勝
| シングルス = 33勝
| ダブルス = 14勝
| 生涯通算成績 = 1141勝436敗
| シングルス通算 = 818勝260敗
| ダブルス通算 = 323勝176敗
| 生涯獲得賞金 = $1,584,909
| 全豪オープン = 優勝 (1970)
▲| 全仏オープン = ベスト8 (1970, 1971)
| ウィンブルドン = 優勝 (1975)
| 全米オープン = 優勝 (1968)
| 優勝回数 = 3(豪1・英1・米1)▼
▲| 優勝回数 =
| 全豪オープンダブルス = 優勝 (1977)
| 全仏オープンダブルス = 優勝 (1971)
| ウィンブルドンダブルス = 準優勝 (1971)
| 全米オープンダブルス = 準優勝 (1968)
| ダブルス優勝回数 = 2(豪1・仏1)▼
▲| ダブルス優勝回数 =
| 全豪オープン混合ダブルス =
| 全仏オープン混合ダブルス =
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| 全米オープン混合ダブルス =
| 混合ダブルス優勝回数 =
|デビスカップ=優勝(1963・68-70)
| シングルス最高 = 1位(1968) 2位(ATP)
| ダブルス最高 = 15位
}}
'''アーサー・アッシュ'''('''Arthur Ashe''', [[1943年]][[7月10日]] - [[1993年]][[2月6日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[バージニア州]][[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]出身の男子[[テニス]]選手。本名は ''Arthur Robert Ashe Jr.'' (アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニア)という。[[黒人]]テニス選手の先駆者として活躍したが、[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]のため49歳で死去した。
[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子シングルス「3勝」を挙げる。シングルス自己最高ランキングは2位。キャリア通算でシングルス33勝、ダブルス14勝を記録した。彼は4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手であり、[[1983年]]に[[ヤニック・ノア]]が[[1983年全仏オープン|全仏オープン]]で優勝するまで、4大大会で男子シングルスを制した唯一の黒人選手だった。
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アッシュは公園の管理人だった父親のもとでテニスを始めたが、幼少期から人種差別の影響により、ジュニアのテニス・トーナメントに参加できなかった。10歳の時に黒人医師の[[ロバート・ウォルター・ジョンソン]]([[1899年]] - [[1971年]])と出会い、彼の支援を受けるようになる。ジョンソンはアッシュを自宅に同居させ、学業とテニスの両面で多大の援助を与えた。[[公民権運動]]の高まりとともに、アッシュも徐々に試合出場の機会を得られるようになり、[[1960年]]と[[1961年]]に「全米室内テニス選手権」で2連覇を果たす。そうして[[カリフォルニア大学]]に入学の道も開かれ、「[[全米大学体育協会|全米大学]]テニス選手権」のシングルス優勝も達成した。[[1963年]]から男子国別対抗戦・[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手に選ばれ、黒人のテニス選手として初めてデ杯でプレーするようになった。
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