「赤松氏範」の版間の差分

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Dong1jin4 (会話 | 投稿記録)
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| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[鎌倉時代]] - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
| 生誕 = [[玄徳]]2年([[1330年]])
| 死没 = [[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]([[1386年]][[10月3日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 本光道成
| 墓所霊名 =
| 墓所 = [[兵庫県]][[加東市]][[清水寺 (加東市)|清水寺]]
| 官位 = [[弾正台|弾正少弼]]{{Sfn|今井尭ほか編|1984|p=292}}
| 幕府 =
| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 = [[赤松氏]]
| 父母 = 父:[[赤松則村]](円心){{Sfn|今井尭ほか編|1984|p=292}}
| 兄弟 = [[赤松範資|範資]]{{Sfn|今井尭ほか編|1984|p=292}}、[[赤松貞範|貞範]]{{Sfn|今井尭ほか編|1984|p=292}}、[[赤松則祐|則祐]]{{Sfn|今井尭ほか編|1984|p=292}}、'''氏範'''、[[赤松氏康|氏康]]
| 妻 =
| 子 = [[赤松氏春|氏春]]、[[赤松家則|家則]]、[[赤松祐春|祐春]]、[[赤松季則|季則]]
| 特記事項 =
}}
 
'''赤松 氏範'''(あかまつ うじのり)は、[[南北朝時代から室町 (日本)|南北朝時代前期]]の[[武将]]。
 
== 略歴 ==
赤松則村(円心)の子で、範資と貞範と則祐の弟。無双大力の勇士で父と共に各地を転戦する。だが[[正平 (日本)|正平]]5年/[[観応]]元年([[1350年]])1月に父が死去すると、3人の兄といずれも不仲だったことから[[観応の擾乱]]では3人の兄が北朝にくみしたのに対して氏範は南朝に味方した。[[摂津国|摂津]]中島郡と[[有馬郡]]、[[備前国|備前]]馬屋郷などに勢力を持った。[[文和]]2年/[[正平 (日本)|正平]]8年([[1353年]])には[[四条隆俊]]に従って[[足利義詮]]を破り、文和4年/[[正平 (日本)|正平]]10年([[1355年]])には[[山名時氏]]や[[足利直冬]]らと共に[[京都]]に侵攻して京都を回復するが兵糧問題から京都を放棄した。以後は南朝の中心的武将として[[興良親王]]([[赤松宮]]、[[陸良親王]]ともいわれる。[[護良親王]]の子。母は[[北畠親房]]の娘。)を奉じ、南朝の兵力も任されるに至った。
[[玄徳]]2年([[1330年]])、[[赤松則村]](円心)の子として誕生。
 
赤松則村(円心)の子で、範資と貞範と則祐の弟。無双大力の勇士で父と共に各地を転戦する。だが[[正平 (日本)|正平]]5年/[[観応]]元年([[1350年]])1月に父が死去すると、3人の兄といずれも不仲だったことから[[観応の擾乱]]では3人の兄が北朝にくみしたのに対して氏範は南朝に味方した。[[摂津国|摂津]]中島郡と[[有馬郡]]、[[備前国|備前]]馬屋郷などに勢力を持った。正平8/年[[文和]]2年/[[正平 (日本)|正平]]8年([[1353年]])には[[四条隆俊]]に従って[[足利義詮]]を破り、正平10年/文和4年/[[正平 (日本)|正平]]10年([[1355年]])には[[山名時氏]]や[[足利直冬]]らと共に[[京都]]に侵攻して京都を回復するが兵糧問題から京都を放棄した。以後は南朝の中心的武将として[[興良親王]]<ref>[[赤松宮]]、[[陸良親王]]ともいわれる。[[護良親王]]の子。母は[[北畠親房]]の娘。</ref>を奉じ、南朝の兵力も任されるに至った。
だが[[延文]]5年/[[正平 (日本)|正平]]15年([[1360年]])4月25日に赤松宮が南朝に対して謀反を起こすと、氏範も赤松宮に同調して南朝に叛した。[[賀名生]]を焼き討ちするなど一時は優勢だったが、結局は南朝の追討軍に敗れたため、宮を奈良に落ち延びさせたあと、自らも吉野を去って兄の則祐がいる[[播磨国|播磨]]に帰還し降参した{{Sfn|高坂|1970|pp=93, 291}}。9年後の[[応安]]2年/[[正平 (日本)|正平]]24年([[1369年]])10月10日、摂津中島郡において南朝に帰参して挙兵したため、[[足利義満]]の命令で兄の則祐と一族の[[赤松光範]]らによる追討を受けた。
 
だが正平15年/[[延文]]5年/[[正平 (日本)|正平]]15年([[1360年]])4月25日に赤松宮が南朝に対して謀反を起こすと、氏範も赤松宮に同調して南朝に叛した。[[賀名生]]を焼き討ちするなど一時は優勢だったが、結局は南朝の追討軍に敗れたため、宮を奈良に落ち延びさせたあと、自らも吉野を去って兄・[[赤松則祐|則祐]]がいる[[播磨国|播磨]]に帰還し降参した{{Sfn|高坂|1970|pp=93, 291}}。9年後の正平24年/[[応安]]2年/[[正平 (日本)|正平]]24年([[1369年]])10月10日、摂津中島郡において南朝に帰参して挙兵したため、[[足利義満]]の命令で兄則祐と一族の[[赤松光範]]らによる追討を受けた。
[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年([[1386年]])9月2日、摂津中島郡(播磨という説もある)において再度南朝として挙兵したが、幕命を受けた[[細川頼元]]や[[山名氏]]らの追討を受け、子息ら一族郎党100余名と共に[[清水寺 (加東市)|清水寺]]にて自害した。享年57。遺骸は討伐に従軍していた甥であり惣領の[[赤松義則]]によって手厚く葬られた。
 
[[元中]]3年/[[至徳 (日本)|至徳]]3年([[1386年]])9月2日、摂津中島郡<ref>播磨という説もある。</ref>において再度南朝として挙兵したが、幕命を受けた[[細川頼元]]や[[山名氏]]らの追討を受け、子息ら一族郎党100余名と共に[[清水寺 (加東市)|清水寺]]にて自害した。享年57。遺骸は討伐に従軍していた甥であり惣領の[[赤松義則]]によって手厚く葬られた。
 
終焉の地となった[[清水寺 (加東市)|清水寺]]に氏範らの墓がある。また、同地には「赤松氏範の切腹石」と伝わる大石も存在する。
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{{Reflist}}
 
== 参考文献出典 ==
*{{Cite book|和書|author1=今井尭ほか編|others=[[児玉幸多]]・[[小西四郎]]・[[竹内理三]]監修|date=1984-3|title=日本史総覧|publisher=[[新人物往来社]]|volume=3(中世 2)|id={{全国書誌番号|84023599}}|ncid=BN00172373|isbn=4404012403|asin=B000J78OVQ|oclc=11260668|ref=harv}}
* {{Citation|和書|last=高坂|first=好|authorlink=|editor=日本歴史学会|date=1970-3|title=赤松円心・満祐|series=人物叢書|volume=155|publisher=[[吉川弘文館]]|id={{全国書誌番号|73006025}}|ncid= BN02378981|oclc=29341608|ref=harv}}
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{{DEFAULTSORT:あかまつ うしのり}}
[[Category:赤松氏|うしのり]]
[[Category:南北朝時代の人物 (日本)]]
[[Category:1330年生]]
[[Category:1386年没]]