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藤原は[[チェロ]]を所有してグループで弦楽四重奏をしていたが、盛岡公会堂で演奏の機会に、穴の開いた自分のチェロを、より高級な賢治のチェロと交換して持参した<ref name="horiop212">堀尾、1991年、pp.212 -213</ref>。賢治のチェロはそのまま戦争中も藤原の手元で保管され、賢治の実家の空襲被害から免れることができた<ref name="horiop212"/><ref>賢治のチェロは、現在は[[花巻市]]の宮沢賢治記念館で保存展示されている。</ref>。[[1932年]]9月23日、藤原が伴奏する教え子二人の合唱が[[NHK仙台放送局|仙台放送局]]からラジオ番組で放送され、賢治はその感想を手紙で書き送っている<ref name="horiop212"/><ref>堀尾、1991年、pp.405 - 406</ref>。
 
[[1934年]]秋、賢治が亡くなった1年後に花巻高等女学校を退職、賢治全集編纂のため家族を連れて上京した。のちの10年間、文圃堂版(1934年 - 1935年)および十字屋版(1939年 - 1944年)の賢治全集出版に実務担当として関わった。1944年12月、十字屋版全76巻・別巻1の全集は完成。[[1945年]]8月、49歳のとき終戦真近の東京を引き払い、岩手県紫波町へ帰郷した。
 
郷里に戻った藤原は、今後は賢治の精神を実践しようと水分村東根山麓に入植。過酷な労働環境、厳しい生活状況など、開拓農民の暮らしはひどく大変なものであった。この状況を打開するため、リュックに[[ゲートル]]姿で[[農林水産省|農林省]]へ出かけていき、「宮澤賢治全集編集委員」の肩書きの名刺を持って交渉、生活資金の助成を獲得するなどさまざまな開拓行政へはたらきかけもおこなった。県の開拓者連盟委員長などを長年務め、[[1971年]]、岩手県の県政功労賞を受賞した。