「ジョアンナ・ヒファーナン」の版間の差分

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1863年にヒファーナンとホイッスラーは[[交霊会]]に参加するために、イギリス人画家・詩人だった[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]の[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]の邸宅を訪れ、その後1865年の夏と秋をフランスのトゥルーヴィル=シュル=メールで過ごしている。1866年にホイッスラーが7ヶ月間南米の[[バルパライソ]]に滞在していたときにはヒファーナンに全権を与え<ref name=glasgow/>、家計の一切とホイッスラーの絵画作品を自由に売る許可を出した。
 
[[Image:Gustave Courbet - Le Sommeil (1866), Paris, Petit Palais.jpg||thumb|left|『眠り』クールベ(1866年)]]
ホイッスラーが不在だったこのときにヒファーマンはパリを訪れ、ベッドに横たわった二人の裸の女性を描いたクールベの絵画『'''眠り'''』のモデルとなった。パリ滞在中のヒファーナンとクールベが関係をもっていた可能性もある<ref name=glasgow/>。クールベが1866年に描いた扇情的な絵画『'''[[世界の起源]]'''』もヒファーナンがモデルではないかとする見解があり、二人の関係に対する疑惑が後年のホイッスラーとクールベが仲違いする原因になった。後にヒファーナンとの関係が終わったホイッスラーはアメリカに戻ったが、ヒファーナンの好意に感謝する遺言を残している。