「桂小南 (2代目)」の版間の差分

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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
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独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。[[1969年]](昭和44年)には[[文化庁]][[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]大賞を受賞しており、[[1968年]](昭和43年)と[[1981年]](昭和56年)には文化庁芸術祭の奨励賞、[[1989年]]([[平成]]元年)には[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞した。[[1990年]]、[[紫綬褒章]]受章。
 
門下には、[[桂文朝]]、[[桂南喬]]、[[桂南八]]、[[桂南治]]、[[桂南なん]]、3代目[[山遊亭金太郎]]、[[桂小南 (3代目)|3代目桂小南]]がいる<ref name=iki20/><ref group="注釈">弟子は全員東京の落語家で、[[東京弁]]で落語を演じている。</ref>。
 
1996年([[平成]]8年)に死去した。享年77(満{{没年齢|1920|1|2|1996|5|4}})。
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== エピソード ==
* 2代目小南(当時、金太郎)は、もとは「[[三遊亭右女助|右女助]]」の名跡を継ぐべく、[[桂文楽 (8代目)|8代目文楽]]との交渉に及んだが、逆に文楽に見込まれ、彼が持つもうひとつの名跡の「小南」を譲られることとなった([[桂小南 (初代)|初代小南]]は文楽の師匠である)。
* 説明するのに面倒だから、と「京都出身」で通していた。このため、京都市出身と理解する人も少なくなかった。なお、山国村は1955年(昭和30年)に[[京北町]]となり、さらに[[2005年]](平成17年)に京都市右京区に編入されているため、現在では京都市出身でも間違いではなくなっている。
* [[小学生]]向けの古典落語の本を出版し、各地で「学校寄席」を開くなど、[[柳亭燕路 (6代目)|6代目柳亭燕路]]と同様に低年齢層への[[古典落語]]普及に努めた(後述)。