「仲谷昇」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
修正
50行目:
[[麻布中学]]を経て[[1949年]](昭和24年)に[[中央大学]][[法学部]]に入学するが、大学在学中に演劇活動にのめり込み大学を中退して、[[1950年]](昭和25年)に[[文学座]]演劇研究所に入る<ref name="cinemas">{{Cite web|url=http://cinema.ne.jp/recommend/noborunakaya2016041010/|accessdate=2016-10-19|title=仲谷昇の演劇に対する飽くなきこだわり人生|work=シネマズ|publisher=[[松竹]]|date=2016-04-10}}</ref>。[[1951年]](昭和26年)、座員に昇格<ref name="cinemas" />。[[1953年]](昭和28年)、[[今井正]]監督『にごりえ』で映画に初出演し<ref name="kotobank">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%B2%E8%B0%B7+%E6%98%87-1673154|accessdate=2016-10-21|title=仲谷 昇(ナカヤ ノボル)とは|publisher=[[コトバンク]]}}</ref>[[中平康]]監督の『猟人日記』・『砂の上の植物群』では主演を務め以降、舞台、映画、テレビで貴重な存在として活躍を果たす。
 
[[1963年]]、劇団の体質への不満から[[芥川比呂志]]、[[神山繁]]、[[小池朝雄]]らと文学座を脱退し[[福田恆存]]を中心とした[[劇団雲]]の結成に参加。[[1975年]]には芥川、神山、[[中村伸郎]]らと劇団雲から離れ[[演劇集団 円]]を結成した。芥川亡き後、[[1981年]]からは同団の代表及び株式会社円の社長を務めた。
 
文学座以来行動を共にしていた女優の[[岸田今日子]]と[[1954年]]に結婚、一女をもうけるも[[1978年]]に離婚。[[1980年]]に再婚したが、その女性とも[[1997年]]に離婚。その後、[[2002年]]に再々婚した。