「フランス革命戦争」の版間の差分

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[[1793年]]1月、[[国民公会]]は戦時体制の強化のため国防委員会(後の[[公安委員会 (フランス革命)|公安委員会]])を設置した。しかしそのころフランス軍の状態は悪化していた。前年に軍へ参集した義勇兵たちは満期を理由に帰郷し、常備軍の兵士たちは満足な給与も与えられておらず、前線の兵力は次第に減少していった。さらに、1月21日の革命政府によるルイ16世の処刑はヨーロッパ中を震撼させ、[[スペイン]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[ナポリ王国]]、[[サルデーニャ王国]]、さらにはそれまで市民革命に同情的であったイギリスすら反革命に立たせる。またイギリスにとっては、オランダがフランスの手に落ちることは自国の安全保障からも重大な問題であった。こうした理由から、イギリスを中心とした主要国間で[[第一次対仏大同盟]]が結成される。2月1日、フランスはイギリスとオランダに対しても宣戦布告した。
 
2月24日、国民公会は兵力不足を補うための「30万人募兵」を可決したが、思ったほど兵士は集まらなかった。それどころか募兵への反発から3月には[[ヴァンデの反乱]]が勃発した。前線では、デュムーリエが南ネーデルラント防衛という政府の方針を無視してオランダへ侵攻したが、兵力不足とオーストリア軍の反撃の前に撤退を余儀なくされ、さらに{{仮リンク|[[ネールヴィンデンの戦い (1793年)|en|Battle of Neerwinden (1793)|label=ネールヴィンデンの戦い}}]](3月18日)に敗北した。追い詰められたデュムーリエは、[[ジャコバン派]]に処刑されるよりはと政府に対する反乱を部隊に呼びかけるが、部下の反対にあい、4月5日に敵陣へ逃げ込む羽目になる。
 
南フランスではジャコバン派政権に対する反乱も起きた。4月29日に[[マルセイユ]]、5月29日に[[リヨン]]で反政府の反乱政権が誕生、7月12日には[[トゥーロン]]が反旗を翻しイギリス軍を援軍に招きいれた。さらにイギリスは5月31日にフランスに対する海上封鎖を発令し、スペイン軍、サルデーニャ軍も国境を越え、[[7月27日]]オーストリア軍は{{仮リンク|ヴァレンシエンヌ包囲戦 (1793年)|en|Siege of Valenciennes (1793)|label=ヴァレンシエンヌ包囲戦}}を陥落させた。フランスは再び窮地に陥った。
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* [[1792年]]9月20日 - [[ヴァルミーの戦い]]
* 1792年11月6日 - {{仮リンク|ジュマップの戦い|en|Battle of Jemappes}}
* [[1793年]]3月18日 - {{仮リンク|[[ネールヴィンデンの戦い (1793年)|en|Battle of Neerwinden (1793)|label=ネールヴィンデンの戦い}}]]
* [[1793年]]7月27日 - {{仮リンク|ヴァレンシエンヌ包囲戦 (1793年)|en|Siege of Valenciennes (1793)|label=ヴァレンシエンヌ包囲戦}}
* 1793年9月8日 - {{仮リンク|オンドスコートの戦い (1793年)|en|Battle of Hondschoote (1793)|label=オンドスコートの戦い}}