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Tanuki32 (会話 | 投稿記録)
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==概要==
仲松里之主親雲上庸象と眞満の次男に生まれる。6-7歳で絵を描き始める。父は絵より字を練習するよう叱ったが、こっそり絵を描いたという。7-8歳で天才少年として評判になる。り、12歳のときより宮廷で育てられて[[山口宗季]](呉師虔)に絵を学ぶ。
 
[[三司官]]・[[蔡温]]より「廷器」の[[]]賜る。また[[尚敬王]]より印を賜る<ref>[http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/bulletin/image/kiyou30/30-3.pdf 津波古聰「殷元良の絵画資料」沖縄県立博物館紀要]</ref>
[[1752年]]、[[進貢使]]の「大筆者」として[[清]]に渡り、帰国後に尚敬王の[[御後絵]]を描いた。[[花鳥画]]や[[山水図]]にすぐれた。のち[[座間味村|座間味]][[間切]][[総地頭]]となる。50歳で没。作品に「山水図」「鶉(うずら)図」「神猫図」「雪中雉子の図」などがある<ref>デジタル版 日本人名大辞典+Plus</ref><ref>朝日日本歴史人物事典</ref><ref>新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画</ref>。
 
[[1752年]]、[[進貢使]]の「大筆者」として[[清]]に渡り、帰国後に尚敬王の[[御後絵]]を描いた。[[花鳥画]]や[[山水図]]にすぐれた。のち[[座間味村|座間味]][[間切]][[総地頭]]となる。り、50歳で没した。作品に「山水図」「鶉(うずら)図」「神猫図」「雪中雉子の図」などがある<ref>デジタル版 日本人名大辞典+Plus</ref><ref>朝日日本歴史人物事典</ref><ref>新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画</ref>。
 
==主な作品==
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*『紙本着色雪中雉子の図』1幅・1979年(昭和54年)4月9日指定<ref name=list/><ref>[http://www.museums.pref.okinawa.jp/search/museum/detail.php?c=22&code=191870&hid=07000059&eid=00&oid=146194 紙本着色雪中雉子之図(殷元良筆)] - 沖縄県立博物館・美術館</ref>
*『紙本墨画竹の図』1幅・[[1982年]](昭和57年)[[3月4日]]指定<ref name=list/><ref>[http://www.museums.pref.okinawa.jp/search/museum/detail.php?c=22&code=191815&hid=07000004&eid=00&oid=142074 紙本墨画竹の図(殷元良筆)] - 沖縄県立博物館・美術館</ref>
 
==「沖縄文化の遺法」所載の作品==
==『沖縄文化の遺宝』所載の作品==
[[鎌倉芳太郎]]『沖縄文化の遺』写真編に殷元良名義で作品の写真が所収されている。いずれも鎌倉が[[大正]]年間に撮影したもの。それである(所載作品は以下の通り
* 粟鶉図(254p』(p. 254、同部分255p)p. 255)
* 神猫図(伝殷元良筆、256p)p. 256)
* 夏景山水図(257p)』(p. 257)
* 秋景山水図(258p)』(p. 258)
* 雪景花鳥図(』(上記絹本着色雪中雉の図と同一と思われる)
 
==脚注==