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'''范 文'''(はん ぶん、Phạm Văn、Fan Wen、生年不詳? - [[349年]])は、[[チャンパ王国]]({{仮リンク|林邑国|zh|林邑}})の王(在位:[[336年]] - [[349年]])。
 
== 生涯 ==
[[揚州 (江蘇省)|揚州]]の出身。少年期に掠われて奴隷として[[交州]]に売られ、[[日南郡]]{{仮リンク|西巻県|zh|西捲縣}}の{{仮リンク|范稚 (日南郡)‎|label=范稚|zh|范稚 (日南郡)}}の家の奴隷となった。山中で牧牛していた折に2匹の[[コイ|鯉]]を獲らえ、その鯉が鉄に変じたためにその鉄で刀を鍛え、石に向かって「もし石を斬って壊すことができれば、文はこの国の王となるだろう」と願い、果たして石を斬ると干し草のように斬れたので、野心を抱いたと伝えられる。范稚の命により商人として林邑に入り、林邑王[[范逸]]に宮殿や都市の造営、兵器の製法を教えた。このため范逸の信任を受け、将軍に任じられた。范逸の寵を得た范文は王家の諸子を讒言して他国に亡命させた。[[336年]]に范逸が死去すると、跡継ぎがなかったため、国内の有力者を脅して自ら国王として即位した。即位した范文は范逸の妻妾をことごとく自らのものとし、従わない者は餓死させた。さらに各地の王子たちを誘き出して毒殺した。[[東晋|晋]]の領土であった日南郡を奪って太守の夏侯覧以下五、六千人を殺害し、さらに[[九徳郡]]に進攻した。勢いに乗った范文は晋の[[交州]][[刺史]]朱蕃に日南郡の北の{{仮リンク|ホアンソン山脈‎|label=横山|zh|橫山 (越南)}}を両国の国境にしようと申し入れたが受け入れられず、朱蕃が派遣した督護の劉雄に破れて、やむなく兵を返した。翌年[[九真郡]]に進攻し、多くの屍を築いた。349年、晋の派兵した征西督護の滕畯に盧容で敗北して九真郡から撤退し、同年に死去した。
 
== 参考資料 ==
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{{DEFAULTSORT:はんふん}}
[[Category:チャンパ王]]
[[Category:の人物]]
[[Category:349年没]]