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木下源造 (会話 | 投稿記録)
木下源造 (会話 | 投稿記録)
子女
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大食漢であり、あるときには朝五杯、昼六杯、夜七杯と、どんぶりめしを食いあげたといわれる。1923年(大正12年)の[[関東大震災]]には鈴木為次郎の神田の下宿で遭遇し、昼食にかかろうとする時で木谷はおはちを抱えて外に飛び出した(鈴木為次郎談)。
 
棋士の[[小林禮子]]は三女。[[毎日放送小林光一]]元アナウンサーで[[フリーアナウンサー]]の[[吉田智子名誉称号 (アナウンサー囲碁)|吉田智子名誉三冠]]は四女婿(禮子の夫)。棋士で女流本因坊などを獲得した[[小林泉美]]は孫(禮子の子)。元[[囲碁の記録一覧|五冠王]]の[[張栩]]九段は孫・泉美の夫
元[[国立長寿医療研究センター|国立療養所中部病院]]長寿医療研究センター長の[[木谷健一]](2008年没)は長男。[[法政大学]][[法科大学院]]教授の[[木谷明]]は二男。
 
棋士の[[小林禮子]]は三女。[[毎日放送]]元アナウンサーで[[フリーアナウンサー]]の[[吉田智子 (アナウンサー)|吉田智子]]は四女。棋士で女流本因坊などを獲得した[[小林泉美]]は孫(禮子の子)。
 
== 生涯 ==
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*1936年 1月1日付けで七段の免状授与。4月「勝抜き三番棋戦」で1昭和9年2月以来'''十人抜き'''を達成、懸賞金三千円を獲得。秋期大手居準三等に入賞。9月、次女没。
*1937年 6月17日「本因坊名人引退碁」挑戦者決定6人リーグ開始。夏、[[平塚市|平塚]]に移る。12月次男誕生。
*[[1938年]](昭和13年)4月「名人引退後」挑戦者決定リーグで'''五戦全勝'''。6月26日、[[本因坊秀哉]]名人との引退碁を開始。打ち継ぎ15回を経て、12月4日に終局。木谷の先番五目勝に終わる。この対局の模様を、[[川端康成]]が観戦記に書き、さらにそれをもとに、小説『[[名人 (小説)|名人]]』を執筆した。小説中では木谷は大竹と呼ばれている。いわば引き継ぐ形になった本因坊と名人は木谷本人は獲得できなかったが弟子たちがタイトルを獲得した
*1939年 6月、「木谷・呉清源十番碁」開始。12月、三女[[小林禮子|禮子]]誕生。
*1940年 第一期[[本因坊戦]](全日本選手権)選士級本戦開始。第三次'''優勝'''。12月、父没。
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|}
参考<ref>{{Cite|和書|author=内藤由起子(囲碁観戦記者)|title=それも一局 弟子たちが語る「木谷道場」のおしえ|date=1969|publisher=水曜社|isbn=978-4-88065-396-9|ref=harv}}</ref>
 
== 子女 ==
三男五女授かっている。50人以上の弟子をプロ入りさせた木谷だが実子でプロ入りしたのは1人のみ。しかし男子3人は全員[[東京大学]]を卒業した。
* 長女:[[東京芸術大学]]卒業。[[音楽家]]。
* 次女:2歳で夭逝
* 長男 [[木谷健一|健一]]:[[東京大学医学部]]卒業。[[医者]]。元[[国立長寿医療研究センター|国立療養所中部病院]]長寿医療研究センター長(2008年没)
* 次男 [[木谷明|明]]:東京大学法学部卒業。[[判事]]。[[法政大学]][[法科大学院]]教授。
* 三女 [[小林禮子|禮子]]:棋士
* 四女 [[吉田智子 (アナウンサー)|智子]]:[[慶應義塾大学]]卒業。[[毎日放送]]元アナウンサーで[[フリーアナウンサー]]。
* 五女:[[東京教育大学]]卒業。福祉の道へ。
* 三男:[[東京大学経済学部]]卒業。[[東京都庁]]勤務。
 
==打碁集・著作==