「松山ホステス殺害事件」の版間の差分
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和子は早速、金沢市内で求職するも34歳という年齢から[[飲食店]]関係に採用されなかったが、不採用であったスナックに飲みに行き情の深い経営者に採用された。採用2日後、整形手術を受けるため上京した後、店に戻り、そこで市内の[[和菓子]]屋の店主と知り合い交際し[[内縁]]関係となる。3代続く老舗和菓子店を切り盛りし、店の売り上げも相当に伸びたという、また親戚と偽り実子を呼び寄せ店で働かせている。
3年後、[[指名手配]]書が全国に貼られ、和菓子屋の家族も和子の素性を疑い始め通報、店の知人の通夜の手伝い中に[[金沢中警察署]]員が斎場に急行したが、それを察知した和子は[[自転車]]で逃走し、[[名古屋市]]に向かう。市内の[[ラブホテル]]で住み込みの客室係として採用される。しかし、たまたま名古屋市の[[緑警察署 (愛知県)|緑警察署]]に[[運転免許証]]の更新に行った同僚が指名手配写真を見て、和子に自首を勧めたため逃亡、市内の別のラブホテルの[[面接]]を受けたが、その際、顔写真と、[[雇用契約]]の拇印をとられたため、1988年5月13日名古屋市から離れ[[福井市]]に現れ、求職し住み込みでホステスをする。1992年[[大阪市]]内の売春宿に移るが、すぐに辞める。松山東警察署は、公訴時効が迫っていることに焦り始め、手配写真入りの[[テレホンカード]]の配布、肉声の公開、懸賞金100万円という近代警察史上前例のない捜査手法を採用した。
公訴時効まで一年の頃には、再び福井市の福井駅前の[[ビジネスホテル]]を定宿にしていた。当時の客室係の談によると、この頃の和子は涙に濡れた枕カバーを、頻繁に窓から干していたという。
公訴時効直前の大々的な[[
== 公訴時効寸前の逮捕と裁判 ==
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